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時と魔法と  作者: 牡丹
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第10章 校門の外から

 鷹宮怜司は、情報掲示板の入力欄へ指を置いたまま動かなかった。


 画面には、差出人のない返答が表示されている。


『発生日時、場所、最後に接触した人物の情報を提示してください』


 知りたかったのは、万年筆に何が起きたのかだった。


 久世透がどんな能力を隠しているのか、学校より先に突き止めたかった。


 相手が誰なのかは、考えていなかった。


 会員制の掲示板へ入るには、家の関係者から教えられた認証情報が必要だった。


 能力研究者や資産家が未確認事例を交換する場所だと聞いている。


 鷹宮は、それだけで安全な場所だと思い込んでいた。


『あなたは研究者ですか』


 質問を送る。


 返事はすぐに届いた。


『質問への回答が先です』


 短い文だった。


 命令されているようで、鷹宮は眉を寄せた。


 それでも、画面を閉じることはできなかった。


 校内予備検査で能力反応なしと判定された久世。


 異常劣化した万年筆。


 自分へ処分を科し、久世を守った神代学長。


 ここで引けば、全てを疑いのまま終わらせることになる。


 鷹宮は、万年筆が故障した日付と学校名を入力した。


 最後に触れた人物の欄には、最初、名字の頭文字だけを記した。


『対象者を特定できる情報が不足しています』


 再び即答だった。


「何なんだよ」


 誰もいない部屋で呟く。


 指が止まる。


 久世の名前を出せば、学校の外へ情報が渡る。


 けれど、久世が本当に未登録能力者なら、隠している側にこそ問題がある。


 鷹宮は、そう自分へ言い聞かせた。


『久世透。1年4組。能力測定では固有能力なし』


 送信した瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。


『受領しました』


「それだけか」


 鷹宮は続けて入力する。


『接触によって物体を劣化させる既知能力なのか』


『公開された能力記録に完全一致するものはありません』


『なら、新しい能力なのか』


『能力は新しく生まれません』


 常識と同じ答えだった。


 次の文が表示される。


『経過時間の不一致を伴う事例は、公開照合の対象外です』


 鷹宮の指が止まった。


 経過時間の不一致。


 自分は、部品が劣化したとしか書いていない。


『どういう意味ですか』


 送信する。


 返事は来なかった。


 代わりに、画面上の会話が上から順に消えていく。


 万年筆の写真も、診断書も、鷹宮が入力した久世の名前も消えた。


 最後に残ったのは、灰色の1行だった。


『この照会は終了しました』


 数秒後、掲示板への接続そのものが切れた。


 再び認証情報を入れても、利用者が存在しないと表示される。


 鷹宮は暗くなった画面へ、自分の顔が映っていることに気づいた。


 知りたいと思っていただけだった。


 その言葉が、急に言い訳のように聞こえた。


 5日後、鷹宮は学校へ復帰した。


 7月下旬の校舎には、朝から蝉の声が満ちていた。


 終業式まで、あと3日。


 生徒たちは夏休みの予定と、返却され始めた期末試験の結果に気持ちを奪われている。


 鷹宮の謹慎も、教室で流れていた噂も、少しずつ過去の出来事になりかけていた。


「いた」


 登校してきた高瀬颯太が、廊下の先を見て声を落とす。


 能力者クラスの担任とともに、鷹宮が歩いていた。


 透と美月へ近づかないよう、移動の時間と使用する階段まで指定されているらしい。


 鷹宮は教員の隣を歩きながら、1度だけ通常クラスの教室へ目を向けた。


 透と視線が合う。


 鷹宮は何も言わなかった。


 透も、視線を返しただけだった。


「何か、前より怖くない?」


 高瀬が囁く。


「話しかけるなって言われてるんだと思う」


「そういう問題かな」


 鷹宮の姿が階段の向こうへ消える。


 透は、机の横にかけた鞄へ触れた。


 青いクラゲのストラップが、指先で揺れる。


 学校の処分は機能している。


 少なくとも、今すぐ鷹宮が能力を使ってくることはない。


 それでも、あの目から疑いが消えていないことはわかった。


「久世くん」


 教室の前から、榊原真帆が呼んだ。


「少しいいですか」


 透が廊下へ出ると、榊原は細長い箱を渡した。


「新しい端末です。鷹宮君の保護者から、学校を通して弁償されました」


「壊れたほうは」


「調査が終わるまで保管します。返却できる時期は、まだ決まっていません」


「わかりました」


 箱の中には、壊れたものと同じ型のスマートフォンが入っていた。


 時間を戻して取り返したのではない。


 誰かが責任を負い、正しい手順で届いた新しいものだった。


「放課後、学長室へ来てください。相沢さんも一緒に」


 榊原の表情は硬い。


「何かあったんですか」


「今は授業へ戻って。詳しくは放課後に話します」


 昼休み、透は新しい端末へ必要な連絡先を移した。


 美月が向かいの席から作業を覗き込む。


「クラゲは、そっちにつけないの?」


「スマホにつけたら、学校で見つかるだろ」


「もう高瀬くんに見つかってるよ」


「これ以上は増やしたくない」


「何が増えるの?」


「質問」


 美月が笑う。


 新しい端末に彼女の名前を登録する。


 表示名を美月にするか、相沢さんにするか、一瞬迷った。


「今、何を迷ったの?」


「何でもない」


「見せて」


「嫌だ」


 結局、学校で画面を見られても困らないよう、相沢美月と登録した。


 その下に榊原、神代、高瀬の名前が並ぶ。


 1人で抱え込まないための連絡先だった。


 放課後、透と美月は学長室へ向かった。


 扉の前には榊原が立っている。


 入室すると、机の上に来校者名簿と、監視映像から印刷した写真が置かれていた。


 写真には、灰色のスーツを着た男が写っている。


 顔は窓から差し込む光に重なり、輪郭しか見えない。


「今日の午前11時頃、この男が事務室を訪ねてきた」


 神代が言った。


「中央測定局から、校内の能力測定器を確認しに来たと名乗ったそうだ」


 透の背中に冷たいものが走る。


「中央から?」


「嘘だ。中央測定局へ確認したが、今日の訪問予定はない。提示した身分証の登録番号も存在しなかった」


 美月が写真へ顔を近づける。


「この人は、何を聞いたんですか」


「火曜日に行われた校内予備検査の記録を確認したい、と」


 火曜日。


 透が検査を受けた日だ。


「それだけではない」


 神代の指が、来校者名簿の空欄を叩く。


「久世透君の検査を担当した教員へ取り次いでほしいと、名指しした」


 美月が透を見る。


「どうして、名前を」


「校内予備検査の記録は外へ送っていない。担当者も、私と榊原先生を含む限られた教職員だけだ」


「学校の中に、話した人がいるんですか」


「その可能性も調べた。今のところ、記録への不正な閲覧や持ち出しは確認されていない」


 神代は写真を裏返した。


「男は事務職員が訪問予定を確認している間に、校舎を出た。監視映像では常に顔を隠す位置を歩き、校門の外で見失っている」


「鷹宮先輩ですか」


 透が尋ねる。


「まだ断定はできない。だが、彼が万年筆の診断書を学校外へ見せた可能性はある」


「聞けばいいんじゃないですか」


 美月の声には怒りが混じっていた。


「すでに聞いている」


 神代は机の端に置かれた薄い記録用紙を取り上げた。


「鷹宮君は先ほど、能力の未確認事例を扱う情報掲示板へ、万年筆の写真と診断書を投稿していたと認めた」


「投稿したのは、いつですか」


「謹慎が始まった日の夜だ。彼は学校名と君の氏名、所属クラスまで相手へ伝えた」


 透は言葉を失った。


 旧理科準備室で受けた重さよりも、形のない恐怖が胸へ沈む。


 学校の中なら、榊原や神代が止めてくれる。


 だが、名前はもう、校門の外へ出てしまった。


「掲示板の相手は、何者なんですか」


「不明だ。鷹宮君が使った認証情報は無効になり、端末に残っていた履歴も消えている。本人が保存していた画面の一部だけを確認できた」


 神代は書き写された文章を読み上げた。


「『経過時間の不一致を伴う事例は、公開照合の対象外』」


 榊原が息を呑む。


「時間という言葉を、相手から出したんですか」


「そのとおりだ」


「『時の番人』を知っている?」


 美月が小さく言った。


「可能性はある」


 神代は否定しなかった。


「ただし、経年劣化を時間の問題と表現すること自体は不自然ではない。この文だけで、相手が能力名まで知っているとは判断できない」


「でも、もう学校まで来てる」


「ああ。警戒は必要だ」


 透は机の上の写真を見る。


 顔の見えない男。


 相手は透の名前を知っている。


 透は相手の名前も、顔も、目的も知らない。


「鷹宮先輩は、何て言ってるんですか」


「研究者へ相談するつもりだった。危険な相手だとは知らなかった、と」


「知らなかったら、許されるんですか」


 美月が強く尋ねる。


「許されない。だが、今は彼を責めることと、外部の相手から君たちを守ることを分けて考えなければならない」


 神代の言葉は、先日の電話で美月が透へ言ったものと似ていた。


 悪かったことと、その後に受ける被害は別だ。


 鷹宮の過ちと、外部の誰かが何をするかも別の問題だった。


「君たちに、いくつか守ってもらいたいことがある」


 神代は新しい紙を2人の前へ置いた。


「当面、登下校は人通りの多い道を使い、可能な限り1人にならないこと。学校や測定局を名乗る相手から連絡があっても、直接応じず榊原先生か私へ確認すること」


「家に来たら?」


「扉を開けず、家族と警察へ知らせる。こちらから君たちの家族へは、学校周辺で不審者が確認されたとして注意を依頼する。能力の秘密までは話さない」


「美月さんも対象なんですか」


 透は思わず尋ねた。


「現時点で、男が名指ししたのは君だけだ」


 神代は1度言葉を切った。


「だが、相沢君は君と行動をともにすることが多い。交差点の件を調べられれば、無関係ではいられない」


「だったら、美月さんは俺から離れたほうが」


「それ、私に決めさせてくれる約束じゃなかった?」


 美月が透の言葉を遮った。


「でも」


「危ないことは教えて。どうするかは一緒に決める。透くん1人で、私を離すって決めないで」


 学長室で、学校の呼び方を守る余裕はなかったらしい。


 透は口を閉じた。


「相沢君の言うとおりだ」


 神代が言う。


「守るという言葉を、相手の選択を奪う理由にしてはいけない」


 数百年前の保持者を拘束した国家も、最初は守るという言葉を使ったのだろう。


 透はそれ以上、離れてほしいとは言えなかった。


「わかりました。一緒に決めます」


「うん」


 美月は頷いた。


「鷹宮君への接触禁止は継続する。君たちからも、彼へ問い詰めに行かないように」


「行きません」


 透は答えた。


 今すぐ鷹宮に何をしたのか聞きたかった。


 けれど、怒りのまま近づけば、旧理科準備室と同じことを繰り返す。


 今度は透が、相手を追い詰める側になるかもしれない。


 それを避けるのは、逃げではなかった。


「夏休み中の訓練はどうしますか」


 榊原が尋ねた。


「継続する。ただし、日時と移動経路は固定しない。表向きの資料整理も、毎日ではなく不定期に変更する」


 神代が透を見る。


「外部から危険が来る可能性がある以上、今日から訓練内容も変える」


「何をするんですか」


「止めるべきものだけを、迷わず止める訓練だ」


 地下第二演習室の中央に、見慣れない装置が置かれていた。


 半円形の金属枠に、12本の透明な筒が並んでいる。


 筒の奥には、色の違うゴム球が1つずつ収まっていた。


「昔、能力者の反応訓練に使われていた射出器だ」


 神代が操作盤を確認する。


「威力は弱い。直接当たっても痣にはならない」


「12個、全部止めるんですか」


「逆だ。止めるのは1個だけ」


 筒の先、演習室の反対側には大きな布の網が張られている。


 その手前に、細い金属棒で支えられたガラス板があった。


「赤い球だけがガラス板へ向かう。残りは全て網へ入るよう設定した」


「赤だけを止める」


「そうだ。危険な対象を選び、停止させる。ほかの対象の時間には触れない」


 透は射出器とガラス板の距離を測る。


 10メートルほど。


 球が放たれてから届くまで、1秒もないだろう。


「全部を止めるほうが安全じゃないですか」


「この部屋だけならね」


 神代は操作盤へ手を置いた。


「現実には、危険の周囲にも人がいる。車が走り、医療機器が動き、誰かの心臓が鼓動している。範囲を広げれば、君が想定していない時間まで止めることになる」


 初発現では、世界そのものを止めた。


 あの停止がどこまで届いていたのか、透はいまだに知らない。


「危険だけを選べなければ、守ろうとして別のものを傷つける」


「わかりました」


 透は床の線へ立った。


 神代が手元の覆いを閉じる。


「球の色だけを追うな。軌道と終点を見なさい」


「軌道と終点」


「どこから来て、どこへ到達するのか。危険とは、物そのものではなく、その先で起きる結果だ」


 透は深く息を吸った。


 対象。


 方向。


 終点。


 今まで繰り返してきた3つの指定へ、軌道という考えが加わる。


「始める」


 作動音が響いた。


 12個のゴム球が一斉に飛び出す。


 赤。


 見つけた瞬間、ガラスが割れる光景を想像した。


 危ない。


 反射的に、時間へ命令を送る。


 全ての球が空中で止まった。


 射出器の振動も、網の揺れも、神代の手も止まっている。


 演習室から音が消えた。


 透は息を止める。


 また、広げすぎた。


 神代を動かそうと意識する。


 数秒後、神代がゆっくり瞬きをした。


「解除しなさい」


 声が、止まった空間へ戻る。


 透が命令を解く。


 11個の球が網へ飛び込み、赤い球がガラス板へ当たった。


 乾いた音とともに、板へ亀裂が走る。


「失敗ですね」


「いや。最初の反応としては予想どおりだ」


 神代は割れたガラスへ近づいた。


「君は危険を見た瞬間、対象ではなく状況全体を止めた。交差点や体育の授業と同じだ」


「それじゃ、訓練になってない」


「自分の反射を知ることも訓練だ」


 神代が新しいガラス板を取り出す。


 透は割れた板へ手を伸ばしかけ、止めた。


「戻さないのか」


「訓練の失敗だから、戻しても問題ないですか」


「君はどう考える」


 透は亀裂を見る。


 破損を隠すためではない。


 このガラスは、壊して交換することを前提に用意された消耗品だ。


 時間を戻せば、廃棄物を減らせる。


「記録してから戻します」


 操作記録帳へ、時刻と対象、使用理由を書く。


 その後でガラスへ触れた。


 対象はガラス板。


 方向は退行。


 終点は、球が当たる直前。


 亀裂が細くなり、中心へ集まり、消える。


 神代が表面を確かめる。


「問題ない。次へ進もう」


 2回目。


 透は、飛び出した球の色より先に軌道を見た。


 網へ向かう線。


 ガラスへ向かう1本の線。


 止まれ。


 赤い球と、その両隣を飛ぶ青い球が空中で停止した。


 残りの球は網へ入る。


 透はすぐに赤以外の2個を停止から外した。


 青い球が遅れて網へ落ちる。


 赤い球だけが、ガラスの手前で止まり続けた。


「3個から1個へ修正するまで、約2秒」


 神代が計測器を見る。


「最初からできませんでした」


「だが、途中で選び直せた」


 透が停止を解くと、赤い球は勢いを失わずガラスへ当たった。


 また亀裂が入る。


 透は新しい結果を記録し、ガラス板を球が当たる直前へ戻した。


「止めたあと、どうするかまで決めないと駄目ですね」


「そのとおりだ。停止は解決ではない。考える時間を作るだけだ」


 3回目は、停止中の球を手で受け取ることにした。


 4回目は、赤い球と黄色い球を見間違えた。


 5回目は、射出器の内部まで止めてしまい、赤い球だけが筒を出なかった。


 亀裂が入るたび、透は記録を残してからガラス板を元へ戻した。


 失敗のたび、透は操作記録帳へ書いた。


 対象を広げた理由。


 見誤った軌道。


 停止したあとに迷った時間。


 6回目を終えたとき、こめかみに痛みが生まれていた。


「今日はここまでにする」


「あと1回だけ」


「焦りは精度を落とす」


「今、感覚がわかりかけてます」


 神代は透の目を見る。


「鼻血や視界の異常は」


「ありません」


「頭痛は」


「少しだけです」


「次を最後にする。異常が出たら即座に解除しなさい」


 透は開始線へ戻った。


 手のひらの汗を制服の裾で拭う。


 目の前にいるのは、12個の球ではない。


 12本の軌道だ。


 そのうち11本は、誰も傷つけず網へ終わる。


 止める必要はない。


 残る1本だけが、ガラスへ届く。


「始める」


 射出音。


 色が視界へ広がる。


 透は赤い球を追わなかった。


 ガラスへ届く線を選んだ。


 対象を、その線の上にある1個へ絞る。


 止まれ。


 11個の球が網へ飛び込んだ。


 赤い球だけが、ガラス板まで数センチの位置で停止している。


 射出器の振動は続いている。


 網が揺れている。


 神代も動いていた。


 透は停止した球へ歩み寄り、両手で包む。


 そのまま時間を解いた。


 赤い球の勢いが手の中へ戻る。


 衝撃は小さかった。


 ガラス板には傷1つない。


「成功だ」


 神代が計測器を確認する。


「停止範囲は球の表面から数ミリ以内。周囲への干渉なし。指定から停止まで0.4秒」


 透は手の中の赤い球を見る。


「1個を止めただけなのに、世界を止めたときより疲れます」


「切り分ける制御には、広く止める以上の集中が要る」


 神代は操作盤の電源を落とした。


「だが、今の君は危険を見てから選べた。以前とは違う」


 透は操作記録帳へ、7回目の結果を書いた。


 成功。


 その2文字の横へ、停止したあと手で回収したと付け足す。


 止めるだけでは終わらない。


 作った時間の中で何をするかが、次の選択になる。


 訓練を終えると、美月が管理棟の玄関で待っていた。


 神代から、可能な限り1人で下校しないよう言われたためだ。


「お疲れさま」


「待たせてごめん」


「図書室で課題やってたから平気。どうだった?」


「最後の1回だけ成功した」


「何を止めたの?」


「赤いゴムの球」


「かわいい訓練だね」


「12個飛んでくる」


「急にかわいくなくなった」


 2人は、人通りの多い正門から校外へ出た。


 まだ日は高い。


 部活動帰りの生徒が前後を歩き、駅へ向かう道には買い物客の姿もある。


 透は、ガラスへ向かった1本の軌道を思い出していた。


 危険は、目に見える球とは限らない。


 名前や情報も、誰かの手へ届けば人を傷つける。


 鷹宮が送ったものを、時間停止で止めることはできない。


「透くん」


 美月が小さく呼ぶ。


「さっきから、通る人の顔を全部見てる」


「灰色のスーツじゃないか確認してた」


「私もしてた」


 美月は笑おうとしたが、うまく笑えていなかった。


「怖い?」


 透が聞く。


「怖いよ」


 美月は前を向いたまま答えた。


「何を知ってる人なのかも、何をしたいのかもわからないから」


「ごめん」


「それは禁止」


「何が」


「何でも自分のせいにして謝ること」


 美月が透の制服の袖をつかむ。


「私が怖いって言ったのは、透くんを責めたいからじゃない。一緒に怖がって、一緒に気をつけたいから」


 袖をつかむ指は強くない。


 透が離れようと思えば、簡単に外せる。


 だからこそ、自分から離さないと決めた。


「俺も怖い」


「うん」


「でも、今度は隠さない」


「うん」


 横断歩道の信号が赤になる。


 2人は立ち止まった。


 車が目の前を通り過ぎる。


 世界を止める必要はない。


 青へ変わるまで待ち、人の流れと一緒に歩き出した。


 駅前の通りを見下ろせる立体駐車場に、1台の車が停まっていた。


 運転席には、昼前に学校を訪れた灰色のスーツの男がいる。


 男は小型端末の画面で、古い交通監視映像を再生していた。


 映像の日付は、透が初めて時間を止めた日だった。


 信号を無視したトラックが、横断歩道へ近づいている。


 1つのフレームでは、透と美月が車道側にいる。


 その直後のフレームでは、2人が歩道側へ移っている。


 時刻情報の差は、わずか30分の1秒。


 映像の欠落も、停止もない。


 圧縮処理の誤作動として片づけられた、位置の連続性だけが失われた記録だった。


 男は、学校から出てきた2人へ視線を移す。


 写真を撮る音はしなかった。


 端末の上に、透と美月の顔が記録される。


『候補者、久世透。関連人物、相沢美月。物品の経年差異と映像上の位置連続性異常を確認』


 男が報告を送る。


 画面に返答が表示された。


『観測を継続。現段階での接触および確保を禁ずる』


 男は端末を閉じた。


 透と美月は、人混みの向こうへ消えていく。


 車は2人を追わなかった。


 ただ、その日から、透の知らない場所でも彼の時間が数えられ始めた。


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