第2話:【一撃】
大気を震わせる不快な咀嚼音。
「ギチ、ギチギチギチッ!!」
背後に現れたのは、無数の足で岩壁を削りながら迫る、全長十メートル超の上級怪異――『業の残滓、大百足』だった。
――大百足。その言い伝えは俵藤太の伝承にまで遡る。龍神を苦しめていた大百足を武勇に優れる俵藤太が弓で退治したという。
つまり、まあ、俺程度の実力では到底敵いっこない、ということだ。
「マズいぞ……。どこにも逃げ場がない……!」
俺は咄嗟にスマホの防御術式を起動しようとしたが、指が震えてコードが入力できない。
だが、もし術式をすんなり発動できたとしても一条家で『無能』と蔑まれた俺では、このバケモノを数秒止めるのが精一杯だろう。
俺の冒険は、本当にここで終わってしまうのだ。
なんとも報われない、短い人生だった。
――その絶望を切り裂いたのは、凛とした、そして酷く不機嫌そうな声だった。
「やかましいわ。……其の方、私の話を遮ってまで喚くとは、よほど死に急いでいると見える」
目の前の少女――九曜眞白が、ゆっくりと振り返る。
彼女の瞳には、上級怪異への恐怖など微塵もなかった。あるのは、俺とドローンに向けられた羞恥による怒りだけだ。
「危ない! そいつは上級の怪異で――」
「上級? 知らぬな。……そのような『塵』、我が術式の端に触れる価値もなし」
少女が、白く細い指先をスッと掲げる。
刹那。
彼女の指先を中心に、空間が歪んだ。
パチン、と。
乾いた音が響いた。
「――消えよ。汚らわしい」
その瞬間、世界から音が消えた。
ドーム状の白い衝撃波が周囲に広がったかと思うと、次の瞬間には、大百足の巨大な質量が存在そのものを否定されたかのように、サラサラとした呪力の塵へと変わっていく。
咆哮を上げる暇さえ与えない、文字通りの一撃。
後に残ったのは、静寂と、彼女が放った圧倒的な呪力の余韻だけだった。
「……え?」
俺は呆然と立ち尽くす。
一条家の当主でも、上級相手なら数分の儀式と数人での連携が必要なはずだ。それを、指先一つで?
ふと、手元のスマホに目を落とす。
画面上の通知が、見たこともない速度で流れ続けていた。
『!?!?!?!?!?!?』
『え、今の何?』
『今、指パッチンしただけで上級怪異が消えた……?』
『CGだろ!? いやでも、あの空気の揺れ方はガチか……?』
『同接ヤバい!! 100……500……1,000人突破!!!』
画面右上の数字が、壊れた計数機のように跳ね上がっていく。
増え続ける同時接続者数は2,000、3,000……そして、4,000人を超えた。
「もしかして……バズ、ってる……?」
心臓が痛いほど脈打つ。
一条家を追放され、誰にも見向きもされなかった俺の配信が、今、ネットの海で弾けようとしている。
だが、そんな奇跡のような状況を知る由もない少女は、再び俺を鋭い視線で射抜いた。
「……して、術師。今の怪異も、其の方が操る『覗き見の法具』も同罪よ。主が主ならば、法具も法具。これほど破廉恥な辱めを受けたのは、数百年ぶりであるわ……っ!」
彼女は顔を真っ赤に染め、今度こそ俺を消し飛ばさんとばかりに、再び指を掲げる。
「待っ、待ってください! 誤解です! これは覗きじゃなくて……『配信』と言って、今の貴女の勇姿を世界中の人が称賛してるんです!」
「しょう、さん……? 私を、褒めていると申すのか?」
掲げられた指先が、ぴたりと止まる。
「そうです! ほら、このコメントを見てください! 『女神降臨』とか『最強すぎる』とか……」
俺は必死に、スマホの画面に流れる賞賛のコメントを彼女に見せた。
眞白は疑わしげに、恐る恐る呪いの板を覗き込む。
『お嬢様かっこよすぎ!』
『今の除霊、マジで国宝級だろ』
『銀髪美少女様、最高です!』
文字の奔流を目の当たりにして、眞白の顔から怒りがスッと引いていった。
代わりに、耳の先まで苺のように赤くなる。
「な……ななな、なんという厚顔無恥な! 見知らぬ民が、これほど直截的に女子を褒めそやすなど……っ! 今の世は、かくも羞恥心のない時代なのか!?」
彼女は両手で顔を覆い、しゃがみ込んでしまった。
その隙に、同接はついに5,000人という自分では見たこともない領域を突破する。
通知の振動で、スマホが壊れんばかりに震えていた。
俺は、確信した。
この『最強でポンコツな平安ヒロイン』をプロデュースすれば、歪なこの時代をひっくり返すことができる。
「……よし。眞白さん、まずはここを出ましょう。美味しいパンケーキでも食べながら、これからの話をしませんか?」
「ぱん……けーき? それは、供物の一種か?」
こうして、底辺配信者と、かつての罪人たる最強呪術師の、世界を揺るがす共同生活が幕を開けた。




