第88話 天界からの査察
ウェーノ村の穏やかな昼下がり。
エルフ族が手入れをする美しい木々の合間から、心地よい風が吹き抜けていく。ドワーフ族の工房からはカンカンと小気味良い槌音が響き、マーメル族の美しい歌声が遠くの池から風に乗って聞こえていた。
そんな平和な村の中心、ウェーノ家の庭先に置かれた優雅なティーテーブルで、一人の大天使が優雅に紅茶を傾けていた。
圧倒的な存在感と完成された美貌を持ち、艶やかな白金の髪をなびかせる大天使ミカエルである。
「はぁ……アインさんの淹れるお茶とこの村の平穏……。天界の堅苦しい空気とは大違いだわ。本っ当に最高!」
ミカエルは、元大悪魔ルシファーを監視するという名目で、半ば強引にウェーノ村に居座っていた。しかし、その実態は完全に「職権乱用」であり、天界への定期報告などとうの昔に忘れ去り、すっかりこの村でのスローライフを満喫しきっていたのだ。
その頃、監視対象であるはずのルシファーはといえば――
「ほら、そこはもう少し魔力を抑えて……そう、上手いぞ!」
「やったー! ルー先生、できたー!」
「わはは、よくやったな! 次はエルフ族と一緒に収穫の手伝いに行くぞ!」
畑の向こうで、ルシファーは獣人族の子供たちに優しく魔法の基礎を教え、エルフ族と肩を並べてニコニコと農作業に勤しんでいた。絶望の象徴と呼ばれたかつての面影は欠片もなく、今やすっかり真面目で面倒見の良い村の青年である。
「ルーもすっかり村に馴染んでるなぁ〜。」
縁側で麦茶を飲みながら、ウェーノ家の大黒柱であるトーヤが目を細める。
しかし、そんな平和な時間は、突如として破られた。
ピシャァァァァァンッ!!
突然、雲一つない青空が黄金の光と共に空間そのものが裂け、そこから三つの厳格で恐ろしい気配が降臨したのだ。
純白の法衣を身にまとい、背中には三対の光の翼があり、顔の半分をバイザーのようなもので隠した三人の天使。彼らは天界の独立機関であり、神の規律を厳格に取り締まる「天使局」の特別査察官たちだった。
「ミカエル様……! なぜ天界への定期報告が三ヶ月も途絶えているのですか!」
「ルシファーの監視任務はどうなっているのですか!?」
査察官たちの冷たい声が響き渡る。
優雅にお茶を飲んでいたミカエルは、ビクゥッ! と肩を震わせ、ティーカップを取り落としそうになった。
(や、やばい……! もしかして、サボっていたのがバレたかしら!? いや、ここは威厳を保ち、白を切り通さないと……!)
ミカエルは瞬時に表情を作り直し、幾対もの巨大な光の翼を広げて神々しく微笑んだ。
「ふ、ふふ……よくぞ来ましたね、査察官たちよ。報告が遅れたのは、私がこの地でルシファーを厳しく、それはもう血も凍るような拷問のごとき監視で痛めつけていたからです!奴は今も私の恐怖支配の下で……。」
「――この大根は良い出来だな! アインに渡して今夜のポトフにしてもらおう!」
「フォッフォッ、それもこれもルー殿の土魔法のおかげじゃよ。」
畑から、ルシファーとエルフ族の和やかな笑い声が響いてきた。ルシファーの顔には土がつき、その表情は充実感と善良さに満ち溢れている。
査察官たちは無言でその光景を見た後、スッとミカエルに視線を戻した。
「……ミカエル様。あの悪魔、完全に改心して村の収穫の喜びを分かち合っているように見えますが……。」
「先ほどは、子供たちにまで優しく魔法を教えていましたよ。もしや大天使に戻ったのでは?」
「まさかミカエル様……監視を理由に、ただこの村でサボっていただけなのでは……?」
ジトォォォッ、と疑念の目を向ける査察官たち。
「ち、違います! あれは巧妙な罠でして……! 私の油断を誘うためにあえてあのような……!」
ミカエルが冷や汗を流しながらしどろもどろに言い訳を重ねるが、査察官たちの顔はどんどん険しくなっていく。このままでは天界へ連行され、厳しい罰則が待っている。
「あらあら、お客さんかしら?」
その絶体絶命のピンチを救った?のは、ふんわりとした笑顔を浮かべたウェーノ家のお母さん、アインだった。お盆の上に人数分のティーカップを乗せて庭に現れる。
彼女は歩きながら、宙に向かって優しく語りかけていた。
「風の精霊さん、お湯の温度を少し下げてちょうだい。ええ、土の精霊さんもありがとう、美味しい茶葉が育ったわね。世界が今日も優しいわね。」
アインの《ネイチャー・リンク》の力により、彼女の周りには自然の精霊たちが嬉しそうに舞い、世界そのものが彼女の意志に呼応して奇跡を起こしていた。お湯は自然に沸き立ち、茶葉は最高級の香りを放つ。
「な……っ!? 精霊はおろか、世界そのものと対話しているだと……!?」
査察官の一人が驚愕に目を見開いた。
さらにそこへ、長男のソーヤがひょっこりと顔を出した。
「母さん、お客さん用の椅子が足りないみたいだから出しておくよ。」
ソーヤが何もない空間を指差すと、彼のスキルが発動した。
「『安らぎ』と『癒し』の概念を付与してっと……。」
光の粒子が集まり、何もない無の空間から、座るだけであらゆる疲労が回復し、幸福な時間を過ごせる極上の椅子が三脚、瞬時に創り出された。無から意味や概念を創り出す、神すらも凌駕する力である。
「む、無から物質と概念を創り出した!? あれは神の御業……いや、それ以上では!?」
「生命だけでなく無機物まで従える慈愛の女神……そして、無から有を、概念を創り出す創造神……!!」
査察官たちは完全にパニックに陥った。彼らの常識では到底測り知れない、まさに神の奇跡ともいえる光景が目の前にあった。
彼らは震える足でその場に膝をつき、アインとソーヤに向かって深々と頭を下げ、そして、ミカエルへ向き直った。
「ミカエル様……! 私たちはとんでもない愚か者でした!」
「え? はい?」
「ミカエル様は、ルシファーの監視などという些事ではなく、この地に降臨された『新たな神々』をお迎えし、お仕えするために、残っておられたのですね!」
「…………え?」
ミカエルはポカンと口を開けた。
「何という慈愛! 何という創造の力! 天界の記録にはない、しかし間違いなく創世の力を持つ新たな神の誕生! ミカエル様がわざわざ天界の職務を放棄してまで、お仕えなさるのも納得です!」
「あ、あの、査察官殿? それは少し誤解が――」
「誤解などありません! この壮大な真実をただちに天界へ持ち帰り、最高議会に報告せねば! 新たなる神の誕生に栄光あれ!!」
査察官たちはミカエルが制止する言葉にはまったく聞く耳を持たず、感極まった様子で涙を流しながら、再び空の裂け目へと飛び去っていった。光と共に天界への門が閉じ、嵐が去った後の庭は、再び静寂を取り戻していた。
「……あら、帰っちゃったわね。お茶、飲む前に……。」
アインが少し残念そうに首を傾げる。
「まぁ、忙しい人たちだったんだろうね……。」
ソーヤが新しく創った椅子に座りながら淡々と答える。
ミカエルは一人、庭の真ん中で頭を抱えていた。
天界の査察部が「ウェーノ家=新たな神」という盛大な勘違いを抱えたまま帰ってしまった。これから天界でどんな騒ぎになるか想像するだけでも恐ろしい。色々と突っ込みたいし、訂正しに行かなければならないのは分かっている。
しかし……。
(……これで私がこの村に居座る正当な理由ができたわけだし……。まぁ……いっか。)
ミカエルは半ば諦めつつ、気持ちを切り替える。そして何事もなかったかのように、アインが淹れてくれた紅茶に手を伸ばす。
その一部始終を縁側から見守っていたトーヤは、ホッと胸を撫で下ろして呟いた。
「……よく分からないけど、今回は大ごとにならずに済んで良かったな……。」
かくして、ウェーノ家の知らぬところで、天界の歴史に「新たな神(ウェーノ家)」という盛大な勘違いの一ページが刻まれることになるのだが、それはまた別の話である。




