第86話 ダイエット
陽光が優しく降り注ぐウェーノ村の昼下がり。天界からウェーノ村の監視という名目で半ば強引に居座っている大天使ミカエルは、今日もウェーノ家のダイニングテーブルで至福の時を過ごしていた 。
「……素晴らしいわ。この滑らかな舌触り、そしてほろ苦いカラメルと濃厚なカスタードの完璧な調和。これはもう神の奇跡ですね!」
ミカエルの目の前には、空になった小さなガラスの器がすでに五つ並んでいた。アインが作る料理はどれも格別で、天界で長らく無機質な食事をとってきた大天使の味覚を完全に狂わせていた 。その中でも最近のミカエルのお気に入りは、このアイン特製のプリンである。気がつけば、冷蔵庫を開けては一つ、また一つと口に運ぶのが日課となっていた。
しかし、その日の夜。お風呂上がりにふと姿見の前に立ったミカエルは、そこに映った自分の姿に目を疑った。
圧倒的な存在感と完成された美貌、そして艶やかな白金の髪を持つ己の姿 。そこまではいつも通り美しい。だが、視線を少し下げた腹部……今まで彫刻のように引き締まっていたはずの抜群のプロポーションが、ほんのりと、いや、明確に「ぽっちゃり」と丸みを帯びていたのである。恐る恐る指でつまんでみると、そこには疑いようのない事実として、不要な物質が指の間に収まっていた。
「な、なんですかこれは……⁉ 大天使である私の肉体が、このようなだらしない姿になるなんて……!」
天界の威信にかけて、大天使としてこのままではいけない。ミカエルは即座に「ダイエット」を決意した。だが、生まれてこの方、太るという概念すら知らなかった大天使は、具体的に何をすれば痩せられるのか全くわからなかった。
一晩中考えていたものの良い案も浮かばず、翌朝、寝不足のミカエルは村の住人たちに教えを乞うことにした。
まずは、運動神経が抜群で力仕事も得意な獣人族たちのもとへ向かった 。
「痩せる方法?そりゃあ、丸太を背負って山を百周くらい走れば一発だよ!」
(ふむ。確かに、しっかり運動すれば、体も引き締まるかもしれませんね……。)
傍から見れば神々しい天使が大きな丸太を背負って、一心不乱に走っている姿は、想像以上に滑稽であるが、そんなことは言ってられない。さっそくミカエルは彼らのアドバイスに従い、大天使の誇りを捨てて丸太を背負って走ってみた。しかし、神聖なオーラが丸太の重さを無効化してしまい、結局ただの散歩にしかならなかった。
(どうやらこれは、あまり効果がなさそうですね……。別の種族に伺ってみましょう。)
◆
獣人族の方法はあまり効果が見られなかったため、次はダグルス親方を中心に、普段は工房で鍛冶を行っているドワーフ族を訪ねてみた。
「ガハハ!ダイエットなら、燃え盛る炉の前で鉄を叩いて汗を流し、その後に冷えたビールをがぶ飲みするに限るぞ!脂肪が燃焼して、筋肉も引き締まるからな!」
(丸太を持って走るよりは、上半身を使うので、良いかもしれませんね……。)
工房の一部を借りて、ダグルスたちと一緒に、言われた通りにハンマーを振るってみた。しかし、天使の体は極端な熱に耐性があるため、燃え盛る炉の前でも一滴の汗もかかなかった。それどころか、一仕事終えた後に勧められたビールを飲んで、むしろ摂取カロリーが増える羽目になった。
(痩せるどころか、ビールで逆にお腹が膨れてしまいました……。いち早く別の方法を探さねば……。ダイエットと言えば、やはり女性!次はマーメル族に聞いてみましょう。)
◆
気を取り直して、最後は、美しい歌声を持つマーメル族のフィーネたちに相談した 。
「私たちと一緒に、一日中池を泳ぎ回ればスッキリするわよ!」
(確かに、水泳は全身運動と聞いたことがある……。丸太走りや鍛冶など、下半身・上半身だけを使うよりも、一度に全身を使う方が痩せられるに違いない!)
さっそく、ミカエルはフィーネたちの池に入る。しかし、幾対もの巨大な光の翼を持つミカエルが水に入ると、翼が邪魔をしてうまく泳げず、ただ水面でバタバタともがくという、大天使らしからぬ無様な姿を晒す結果に終わった 。
それぞれの種族のダイエット法は、彼らの体質や特性に合わせたものであり、天使の規格外の肉体には全く効果がなかった。
◆
夕暮れ時。
ミカエルは途方に暮れ、村を見下ろす丘の上で膝を抱えていた。
美しかった白金の髪は乱れ、光の翼は力なくうなだれている。
(私は……ただアインさんの美味しい料理を食べたいだけなのに……。大天使の身体って、どうしてこんなにもダイエットに向いてないのかしら……。)
大天使の周囲に、どんよりとした負のオーラが立ち込めていく。
「もふっ。」
その時、柔らかな鳴き声と共に、全身白い毛で覆われた丸っこい生き物が現れた。モフである 。人の負の感情を吸収するモフは、ミカエルから発せられる絶望のエネルギーに引き寄せられてきたのだ 。
モフがミカエルにぽすんと体をすり寄せると、ミカエルの周囲に立ち込めていた負のエネルギーがみるみるうちに吸い込まれていく。
「まぁ、モフ。私のこの惨めな心を慰めてくれてるの……ん?」
モフに話しかけようとした瞬間、ミカエルは自分の身体に起こった異変に気付いた。負のエネルギーと共に、体内に蓄積されていた「余分なカロリー」までもが、なぜかモフに吸収されていたのである。
恐る恐る腹部を確認すると、憎っくきぽっちゃり肉が消え、元のスリムで完璧なプロポーションに戻っているではないか。
「こ、これは……!」
ミカエルは驚きながらも、すぐにその計算高い頭を働かせ始めた。
(モフに余分なエネルギーを吸収させ続ければ、今後どれだけアインさんの料理を食べても太らないんじゃない……⁉)
そこまで考えた後のミカエルの行動はとても早かった。悪魔のような狡猾な微笑みを浮かべながら、モフへと近づく。
「モフ~。遠慮せずにもっと吸っていいのよ~。念のため、明日の朝食の分も私のエネルギーを吸い取って~。」
「も、もふぅ⁉」
目を血走らせて迫り来る大天使の異常な気配を察知し、モフは全速力で逃げ出した。
「待ちなさい、モフ!お前のそのフワフワな体ならまだ吸えるはず!」
「もっ、もふーっ!」
ウェーノ村ののどかな夕暮れの中、丸っこい毛玉を本気で追い回す大天使の姿があった。
その異様な光景を見るに見かね、ため息をつきながらミカエルの前に立ち塞がる人影があった。
「……ミカエル。いったいお前は何をやっているのだ……。」
最近では、すっかりウェーノ村の生活に馴染んだ、元大悪魔のルシファーである。
「ル、ルー。これは違うのです。何というか、大天使としての完璧な状態を維持するための、神聖なる儀式の一環で……。」
「まったく、またそのような戯言を。我も前からお前が少し「ぽっちゃり」しているのには気づいておった。まぁ、毎日あれだけ好き勝手に食べれば、そうなるのは当然だろう。他人やモフに頼らず、これからは少し自重することだな。」
ルシファーから突き付けられた正論に、ミカエルは返す言葉もなかった 。
「……そうよね。アインさんの料理があまりに美味しすぎて、毎日食べ過ぎてしまっていたわ。これからは少し食べる量を控えるわね……。」
急にしおらしくなって、しょんぼりと肩を落とすミカエルを見て、ルシファーも少しばつが悪くなった。
「まぁ、一人だけではなんだ……。我もお前に付き合って、少し食べる量を減らしてやろう。」
ルシファーの提案に目をウルウルしながら、感謝するミカエルであった。
◆
そして、次の日の朝。
ウェーノ家の食卓には、アインが焼き上げたばかりの分厚いパンケーキが山のように積まれていた。表面には黄金色のバターが溶け出し、甘い香りのメープルシロップがたっぷりと滴っている。
「ミカエル。昨日の自分で行ったことを忘れるなよ。」
隣の席でコーヒーをすするルシファーが釘を刺す。
「分かってるわよ!私は大天使なのよ!強靭な自制心を持ってるから、今日はこの一枚だけに……。」
ミカエルは上品にパンケーキを切り分け、口に運んだ。
その瞬間、フワフワの生地とシロップの至福の甘さが、ミカエルの脳内を駆け巡った。
「……っ!!」
気がつけば、ミカエルの皿には五枚のパンケーキがタワーのように積み上げられ、恍惚とした表情でそれを猛然と平らげていた。
「やっぱりアインさんの料理は世界を救うわ……!ルー、明日またモフを探すのを手伝ってくれない?」
「…………。」
呆れ果てて完全に言葉を失ったルシファーをよそに、大天使の魅惑の朝食タイムは、今日も平和に続いていくのだった。




