第65話 堕天使
「モフ、本当によかった……!」
ウェーノ家のみんながモフを取り囲み、涙混じりの大歓声を上げている。
そんな温かい空気の中、ミカエルがわざとらしくコホンッと小さく咳払いをし、おもむろに告げた。
「さて、皆さんが落ち着いたところで……先ほどお約束した『代償』のお話をしましょう。」
その言葉に、全員の動きがピタリと止まり、楽しげだった表情が途端にガチガチに固まる。やはり、タダで大天使の奇跡を受けられるはずがなかったのだ。
一体何を要求されるのかと、トーヤは冷や汗を流しながら身構えた。
するとミカエルは、悪戯っぽく微笑んでこう言った。
「ひとまず、アインさんの淹れてくれる、特製のハーブティーをいただけるかしら? 実は天界にいる頃から、一度飲んでみたいってずっと思っていたの!」
「……へっ!?」
荘厳な空気が一瞬で嘘のように霧散し、まるで近所の友達のように朗らかに話すミカエルに対し、トーヤは思わず緊張感の欠片もない間の抜けた声をあげてしまった。
「だって、下界の様子を覗いているとき、いっつも凄く美味しそうだったんだもの! マカロンもつけてくれたら嬉しいわ!」
どうやら冗談ではなく、ミカエルは本気でハーブティーとマカロンを奇跡の代償として求めているようだった。
「あ、は、はい! じゃあ、さっそく準備してきますね!」
あまりの落差に感情の整理が追いつかないまま、アインはとりあえず、大急ぎでお茶の準備へと向かう。
(……おいおい、本当にこれだけで済むのか? いや、絶対何か裏があるはずだぞ……。)
トーヤは未だに、もっと恐ろしいものを要求されるのではないかと身構え、冷や汗が止まらなかった。
◆
数分後、みんなでテーブルを囲み、賑やかなティータイムが始まった。
トーヤは恐る恐る、優雅にお茶を嗜むミカエルに尋ねてみる。
「あの……ミカエル様。本当に、本当に『代償』がこの程度でよろしいのでしょうか?」
ミカエルはアインの淹れた極上のハーブティーと、サクサクのマカロンを幸せそうに堪能しつつ、上品に口元を拭って微笑んだ。
「ふふ、とっても美味しいわ! ……さて、実はもう一つだけ、ついでのお願いがあるの。亜空間に閉じ込めているルシファーを解放して、これからこの村で一緒に暮らすっていうのはどうかしら?」
ブッ、と誰かがお茶を吹き出す音がした。
ミカエルの口から飛び出したあまりの爆弾発言に、場の空気が一瞬にして絶対零度を通り越して凍りつく。
――こののどかなウェーノ村で、あの世界を滅ぼしかけた大悪魔ルシファーと一緒に暮らす?
そんなこと、天地がひっくり返ってもありえるはずがない。
トーヤは即座に立ち上がり、激しく首を横に振った。
「いやいやいや! さすがにそれは絶対に無理です! あんな歩く超危険物質みたいな奴、この平和な村に置いておけるわけがないでしょう!」
するとミカエルは、困ったようにふわりと慈愛の微笑みを浮かべる。
「あら。どんな代償でも受け入れる、と格好良く仰ったのは、一体どこのどなたかしら?」
「……ぐっ、うぅ………っ。」
一番痛いところを突かれ、返す言葉もなくガタガタと声を詰まらせて黙り込むトーヤ。
「ふふ、冗談よ。あなたたちの不安な気持ちもよく分かるわ。だから、ルシファーをただ放り出すんじゃなくて、彼と一緒に『私もこの村に住む』ことにするわ。それなら文句はないでしょう?」
「……は?」
あまりにも想定の斜め上をいく提案に、トーヤは思わず素っ頓狂な声を漏らした。
ミカエルは終始ニコニコと愛らしく笑っている。
その笑顔はまさしく天使らしい慈愛に満ちている……はずなのだが、なぜかその背後から、底知れない絶対的な圧力がヒシヒシと伝わってくる。
「大丈夫よ。ルシファーはもともと、天界では私と同じ大天使だったの。本当は誰よりも優しくて、誰よりも仲間思いの良い子だったのよ? でも、まぁ……ちょっと……本当に色々、色々あって、拗ねて堕ちちゃっただけなの。」
その“色々”の部分に、絶対に文字通りとんでもないドロドロした事情が詰まっている気がしたが、大天使の笑顔の圧の前に、誰もそれ以上突っ込んで訊ねることはできなかった。
アインが不安そうに、隣にいるトーヤの袖をぎゅっとつまむ。
「トーヤさん……モフも助けてもらったし……ミカエル様がいてくださるなら……。」
「アイン、気持ちは分かるけどさ、さすがに相手は大悪魔だぞ……?」
ミカエルの提案にもなお渋るトーヤを見て、ミカエルは小さくため息をついた。
仕方ないわね、と彼女が細い指をパチンと鳴らす。
すると、彼女の手元に聖なる光の粒子が集まり、ひとつの頑丈そうな首輪を形作った。
それは眩いほど純白で、触れればあらゆる悪を即座に浄化してしまいそうなほど神聖な輝きを放っている。
「これは天界の秘宝“光の首輪”よ。これをルシファーにつければ、彼の強大すぎる悪魔の力は完全に制御され、暴走することもできなくなるわ。これなら私が見張りとして監視もできるし、あなたたちに危害を加えることも物理的に不可能なの。どうかしら?」
トーヤは腕を組み、しばらくの間、真剣に黙り込んだ。最愛のモフを助けてもらった特大の恩があるのは事実。それに、大天使ミカエルが本気で常駐して協力するというのなら、確かに安全性はこれ以上ないほどに高まる。
だが、それにしても、である。
「……ミカエル様。本当に、本当に大丈夫なんでしょうね? 信用していいんですね?」
「もちろんよ! 私を一体誰だと思っているの?」
トーヤの最後の確認の問いかけに、満面の笑みで胸を張って答えるミカエル。
「……はぁ。わかりました。ミカエル様がそこまで責任を持って一緒にいてくれるなら、ルシファーの件も……まあ、なんとかなるか……。受け入れます。」
「ふふ、決まりね! じゃあ、さっそく彼を迎える準備をしましょう!」
ミカエルは満面の天使らしい聖なる微笑みを浮かべた。
だがその直後、ウェーノ家一同には絶対に見えない角度で――
大天使らしからぬ、なんとも悪戯っぽく、そして計画通りと言わんばかりに「ニヤリ」と不敵に笑ったのだった。
トーヤは理由のない不穏な背筋の寒さを感じながらも、しぶしぶ隔離していた亜空間から光の檻を出して、ルシファーを解放する。
ミカエルが軽やかに手を叩くと、手元にあった光の首輪が生き物のように飛び、戻ってきたルシファーの首へとガチリと装着された。
当のルシファーといえば、急に亜空間から現実世界へ戻され、さらに絶対不可侵の光の檻から解放されたと思ったら、今度は謎の首輪を付けられ、さらには目の前にいるはずのない天敵・ミカエルが満面の笑みでお茶を飲んでいるという、あまりに急展開すぎる状況についていけず、ただただ唖然と口を開けて立ち尽くしていた。
こうして――
のどかなウェーノ村に、最強の大天使ミカエルと、力を封印された大悪魔の堕天使ルシファーが同時に居座って共に暮らすという、世界の歴史を揺るがす前代未聞のスローライフ(?)の幕が開けるのだった。




