第62話 モフ
もうもうと立ち込めていた黒い煙が、ゆっくりと、しかし確実に薄れていく。
瓦礫の山の上に立ち尽くすウェーノ家の全員が、涙で潤んだ目を擦りながら、祈るような思いでその中心を見つめていた。
やがて、晴れゆく煙の向こうから――。
「もふっ。」
いつもと全く変わらない、のんきで可愛らしい声が聞こえてきた。
「モフ……無事、なの……?」
ミラが震える声で呟き、トーヤも信じられないものを見たかのように思わず目を見開く。
そこにいたのは、煤汚れ一つない、完全に無傷のモフだった。
その自慢の白い毛並みはふわふわとしたままで、焦げた様子どころか、静電気すら起きていない。
「ありえない……。我が最大級の一撃を受けて、生きてなどいるはずが……!」
ルシファーの傲然とした声が、初めて激しく揺らいだ。
動揺を打ち消すように、彼はすぐに右手を狂ったように振り上げ、次々と禍々しい暗黒魔力を放ち始める。
空間を引き裂く黒い稲妻、肉体と魂を腐らせる呪詛の塊、精神を内側から焼き尽くす負の波動――。
大悪魔による一切の手加減のない猛攻が、容赦なくモフへと降り注いだ。
しかし――。
放たれたすべての凶悪な攻撃は、モフの身体に触れた瞬間、まるで水滴がスポンジに吸い込まれるかのように、すっと消滅していった。
「なっ……、お前、一体何者だ……っ⁉」
ルシファーの端正な顔に、明確な戦慄と動揺が走る。
「もふぅ……。」
モフが一歩、小さく前へ転がり出た。
その瞬間、世界の法則が変わったかのように空気がゴリリッと震えた。
ルシファーの周囲に濃密に漂っていた、悪魔の力の源泉である黒い靄――。
世界への憎悪、他者への嫉妬、凶悪な破壊衝動、すべてを包む絶望、激しい怒り。
それら悪魔の根源ともいえる膨大な負の感情が、まるで目に見えない糸で引かれるように、凄まじい勢いでモフの小さな身体へと吸い寄せられていく。
「や、やめろ……! 貴様、我が力を……何を、何をしている――!」
ルシファーの声が、初めて恐怖と焦りに染まる。
彼が誇っていた圧倒的な魔力が急速にしぼんでいき、それと同時に、依代であるオルディナスの肉体から、影のような黒い精神体が剥がれ落ちていく。
そして、ついに。
――すぽんっ、と。
まるで頑固な栓が抜けるような奇妙な音と共に、ルシファーの本質である精神体がオルディナスの肉体から完全に引き剥がされた。
「今だ! 」
トーヤがここしかないと叫び、両手を前方へ力強く突き出す。
「≪ディメンジョン・ロック≫!」
対象の周囲の空間そのものを固定する最上位時空魔法。
歪んだ空間から無数の光の鎖が這い出し、実体を持たないはずのルシファーを強固な光の檻へと閉じ込めた。
ルシファーは檻の中で狂ったように暴れ、その鋭い爪で空間を引き裂こうとするが――。
「ぐっ……! なぜだ……! なぜこの程度の檻が破れん……っ!」
どれほど力を振るおうとも、世界の境界を固定された時空の壁を破ることは、力を吸い尽くされた今のルシファーには不可能だった。
◆
「終わりだ、ルシファー。これでお前の負けだ!」
トーヤがさらに魔力を高め、檻に向けて手をかざす。
だが、光の檻の中で息を切らしながらも、ルシファーは不敵に薄く笑った。
「無駄だと言っているだろう……。我ら悪魔は不滅の精神生命体……。ここで一度消滅しようとも、長い時を経ていずれ必ず復活する……。」
「そして復活したその暁には、何年、何百年かかろうとも必ずお前たちを見つけ出し――」
「地の果てまで追い詰めて、必ず惨殺してやる……!」
「そんな戯言、信じると思うか?」
トーヤは冷徹に言い放ち、完全にルシファーの息の根を止めるべく、さらに濃密な魔力を集中させる。
しかし、その瞬間だった。
「も……ふ……。」
モフの大きな身体が、ぐらりと不自然に揺れた。
眩いほどに白かったはずのふわふわな毛並みが、じわり、じわりと禍々しい黒色に染まっていく。
まるで純白の布に墨汁を垂らしたかのように、その黒は瞬く間に全身へと広がっていった。
「モフ!? どうしたの、しっかりして⁉」
アインが顔を真っ青にして駆け寄る。
モフは力なくぐったりと横たわり、その呼吸は今にも消え入りそうなほどに浅い。
あまりに膨大な悪魔の負のエネルギーを吸収しすぎたのだ。
「モフ!」
「嘘だろ、おい! 目を開けろ!」
ウェーノ家全員の悲痛な叫びが、ボロボロに崩れ落ちた玉座の間に、どこまでも切なく響き渡った。




