第58話 家族の絆
アトレイア王宮に、優しくもどこか物悲しい朝日が差し込む頃。
レオニス国王は、徹夜の疲労による重い足取りで執務室へと向かっていた。
昨夜の衝撃的な出来事――ラザルド宰相に憑依していた悪魔ルシファーの分身体の襲撃。
そして、北の大国ゼルディア帝国を覆う、底知れぬ“闇”の実態が明らかになったのだ。
執務室の扉を開けると、そこにはすでに、静かに腕を組んで待つトーヤの姿があった。
「……来てくれたか、トーヤ殿。」
レオニスは深く重い息を吐き出すと、机の上に大きく広げられた大陸の地図、その北部に位置する帝国領を苦しげに指でなぞった。
「昨夜は一睡もできなかった。あの悪魔……ルシファー。あれほどの禍々しい存在だ。ゼルディア帝国は、すでに完全に陥落している可能性が極めて高い……。」
トーヤは表情を変えず、静かに頷く。
「はい。昨夜、王妃様にかけられていた呪いの術式を解析しましたが……あれは“本体”の力ではありませんでした。分身体であれほどの絶望的な魔力……本体の力は、おそらく桁違いでしょう……。」
レオニスは苦渋に満ちた表情で顔をしかめた。
「……帝国は今、いったいどうなってしまっているのか……。」
その悲痛な問いに答えたのは、ベッドで休んでいるはずのラザルド宰相だった。
「陛下……帝国は……すでに、国としての体を成しておりませぬ……。」
ミーナにしっかりと支えられながら、顔色の悪いラザルドがゆっくりと部屋に入ってきたのだ。
その声は、恐怖の記憶に今なお激しく震えていた。
「街は見る影もなく荒れ果て、民は飢えと恐怖に怯え、ほんの些細な反抗でさえ即座に処刑される地獄……。国王オルディナス陛下は……もう、我らの知るあの方ではございませぬ。」
「やはり……完全に肉体を、そして精神を乗っ取られているのか……。」
レオニスの握りしめた拳が、怒りと無力感でワナワナと震える。
「おそらくは……。ルシファーが帝国を我が物とし、己の欲望のままに好き放題に蹂躙しているのです……。」
ラザルドは己の不甲斐なさに、悔しそうに大粒の涙を床へとこぼした。
「私は……あの大国で、何一つ抗うこともできなかった……。それどころか、奴の手先として操られ、我がアトレイアをも帝国の二の舞にするところだったのです……。」
レオニスがそっと歩み寄り、ラザルドの肩に手を置く。
「そなたのせいではない、ラザルド。生きて戻ってくれただけで十分だ。」
トーヤもまた、静かで温かい声をかける。
「悪魔の精神汚染にまともに抗える人間など、この世界にはそうはいませんよ。どうか自分を責めないでください。」
ラザルドは唇を強く噛みしめながらも、温かい言葉に救われたように深く頭を下げた。
「しかし、まさかあの帝国がそこまで……。」
アトレイア王国の三倍以上の軍事力と領土を持つゼルディア帝国が、なすすべもなく陥落したという冷酷な事実に、レオニスは再び頭を抱えた。
「オルディナス王は、大陸の英雄だったのだぞ……。あの誇り高き男が、悪魔に身体を奪われるなど……。」
王の声には隠しきれない絶望が混じる。
その時、トーヤが毅然とした態度で一歩前に出た。
「陛下。ルシファーをこれ以上野放しにはできません。奴を止めるため、私が直接、帝国へ向かいます。」
レオニスは驚愕のあまり目を見張った。
「な……っ!? トーヤ殿、まさか一人で行くつもりか!?」
「はい。あれほどの存在、普通の人間の軍隊では到底手が出せません。それに、このまま奴を野放しにすれば、遠からずアトレイアも……私たちの愛するウェーノ村も、すべて侵略され、滅ぼされるでしょうから……。」
◆
その瞬間、執務室の扉が勢いよく、バンッ!と大きな音を立てて開いた。
「トーヤさん! 一人でそんな危険な場所に行くなんて、絶対にダメよ!」
アインが、珍しく真剣で怒りのこもった表情でトーヤに詰め寄ってきた。
「そうだよ父さん。父さんは強いけど、意外と抜けてるところがあるから、一人だと心配で見てられないよ。」
後ろから続いたソーヤが、いつものように不敵にニヤリと笑う。
「僕たちも一緒に行く! だって、僕たちは家族でしょ!」
ユーヤもまた、満面の笑みを浮かべながらも、その瞳には強い決意を宿していた。
トーヤは愛おしい家族を見つめ、しかし今回ばかりはと、ゆっくりと首を振った。
「みんなの気持ちは嬉しい。だけど、今回ばかりは……流石に危険すぎるんだ。相手は本物の“悪魔”だ。私一人ならどうとでもなるかもしれないが、もしもの時、みんなを守りきれる自信がないんだ……。」
その言葉を聞いたアインが、そっとトーヤの両手を強く握りしめた。
その眼差しは、いつもトーヤを優しく包み込む柔らかなものではなく、一歩も引かない、妻としての、母としての確固たる強さに満ちていた。
「私は、どこまでもあなたに付いていきます。だって、私はあなたの妻ですから!」
「僕たちも、父さんと母さんの子供だからね! 異世界にだって一緒に来たんだ!」
「そうだよ! 留守番なんて絶対ヤダからね!」
兄弟たちもまた、まっすぐで揺るぎない眼差しをトーヤへと向ける。
トーヤは降参したように深く目を閉じ、そして自嘲気味に笑った。
(……この家族は……いつもそうだ。私が一人で背負おうとしても、絶対に許してくれない。誰か一人が危険なら、全員で立ち向かう。泥を被るなら全員で被る。それが……私たち『ウェーノ家』の絆だな。)
トーヤはゆっくりと目を開け、誇らしい家族を愛おしそうに見つめた。
「……わかった。一緒に行こう。」
アインがホッとしたように小さく息を呑む。
「ただし――」
トーヤは、父親としての厳格な表情で条件を付け加えた。
「まずは全員で、これ以上ないほど万全の準備をすること。そして、少しでも本能的に危険を感じたら、プライドなんて捨ててすぐに撤退すること。最後に……絶対に、誰も死なないこと。いいね?」
アインは力強く頷いた。
「ええ、約束するわ。」
ソーヤも拳を強く握る。
「絶対に守る。みんなを死なせやしないさ!」
ユーヤも胸を張り、快活に笑う。
「当然だよ! 僕たち、世界最強の家族だもんね!」
家族のどこまでも頼もしい姿に、トーヤの胸の不安は消え去り、自然と微笑みが浮かんだ。
「……よし。じゃあ、全員で、あの悪魔をぶっ飛ばしに帝国へ向かおうか。」
その光景を見ていたレオニス国王は、深く、深く頭を下げた。
「すまぬ……恩に着る。オルディナス王を……我が友を、そして帝国を、どうか救ってくれ……!」
レオニスの悲痛な叫びが、静かに響き渡った。




