第56話 影の名
朝の澄んだ光が、アトレイア王城の気品ある白壁を優しく照らし始めた頃。
ウェーノ家に割り当てられた客室の重厚な扉が、小気味よい音でノックされた。
「ウェーノ家の皆様、陛下がお呼びです。」
扉の向こうから聞こえるミーナの声は、激動だった昨夜に比べればずいぶんと落ち着きを取り戻していた。
だが、その響きの端々には、まだ拭いきれない緊張の糸が張り詰めている。
トーヤは小さく、しかし深く息を吸い込むと、隣に立つアイン、そして頼もしく成長した子供たちへと視線を向け、短く告げた。
「行こう。」
◆
謁見の間の巨大な二重扉が静かに開かれると、そこにはすでにレオニス国王が佇んでいた。
玉座の前に真っ直ぐに立ち、彼らを待っていたその表情には、昨夜の動揺は一切ない。
王としての覚悟、そして国を背負う者としての決断が、その目に満ちていた。
「トーヤ殿……すまぬが、お願いだ。この王宮内を――《スキャン》してほしいのだ」
その声は低く、威厳に満ちていた。
トーヤは王の覚悟を真っ向から受け止め、静かに、力強く頷く。
「……わかりました。やってみましょう。」
「トーヤさん……決して、無理はしないでね?」
アインが、トーヤの袖をそっと引きながら心配そうに見守っている。
その慈愛に満ちた瞳に、トーヤは柔らかな笑みを返した。
「大丈夫。君がそばにいてくれるから。」
「もう、トーヤさんったら……。」
不意の言葉に、アインの頬がぽっと林檎のように赤く染まる。
シリアスな空気の中に、ウェーノ家らしい温かな風が一瞬だけ吹き抜けた。
◆
トーヤは表情を引き締めると、ふっと深く息を吸い、右手を虚空へと掲げた。
「《エリア・スキャン》。」
――ドォォォーンッ!
王宮全体の空気が爆ぜるように震え、目も眩むような純白の光が奔った。
空間に幾重もの緻密な魔方陣が浮かび上がり、一瞬にして全方位へと拡大していく。
それは謁見の間を飲み込み、広大な王宮を包み、やがて城全体を覆い尽くしていった。
本来の《スキャン》とは、単一の対象の情報を細かく読み解き、分析するための魔法だ。
対象が持つ情報は天文学的な量であり、それを「城全体」という無数の命や物質が存在する空間に同時展開するということは、その膨大な情報が、洪水のように一気に脳内へと流れ込むことを意味していた。
案の定――
「っ……が、あ……!」
トーヤの視界が突如として真っ白に染まる。
次の瞬間、王宮内に満ちるすべての魔力の流れ、人々の息遣い、生命反応、過去の残留思念、そして不気味に蠢く呪詛の痕跡――そのすべてが、容赦なくトーヤの脳内へと津波となって押し寄せてきた。
(くっ、覚悟はしていたが、ここまで……情報量が多いとは……!)
想像を絶する負荷に、トーヤの呼吸は激しく乱れ、膝がガクガクと震え始める。
意識が遠のきそうになったその時。
「トーヤさん!」
「「父さん!!」」
アインと子供たちが駆け寄る。アインがそっとトーヤの背に手を添えた。
「≪ネイチャー・リンク≫!」
アインの手が触れた瞬間、トーヤを襲っていた狂気的な負荷が、嘘のようにふっと軽くなった。
大自然の緑の息吹、森を駆け抜ける優しい風のような光がトーヤの頭部を包み込み、奔流する情報を綺麗に整理していく。
「……ありがとう、アイン。助かった」
「ううん。あなたは一人じゃないわ。私たちがついているもの。」
夫婦の絆によってニ人のスキルが完全に同調し、最高精度のスキャンが完了した。
トーヤはゆっくりと立ち上がり、冷や汗を拭いながらレオニスへと向き直る。
「……見つけました。」
その一言で、謁見の間の空気が一瞬にして凍凍りついた。
「昨日、レディナ王妃様の身体に漂っていた、あの黒い靄……。それと全く同じ、禍々しい気配を持つ人物が、この城の中にいます。」
「それは……誰なのだ!?」
レオニスが身を乗り出した、その瞬間。
背後の重々しい扉が唐突に開いた。
「陛下、失礼いたします。本日の執務の件ですが――」
現れたのは、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべた、ラザルド宰相だった。
トーヤは鋭い視線をラザルドに向けつつ、レオニスへと目配せする。
王の表情が一気に険しく歪んだ。
「……ラザルド。そなたに、一つ聞きたいことがある。」
「はて? 何でございましょう、陛下」
ラザルドは小首を傾げ、いかにも不思議そうに、いつもの人当たりの良い笑みを浮かべている。
だが――トーヤの目には、その欺瞞が完全に見えていた。
ラザルドの衣服の隙間から、まるで生き物のように蠢き、身体にまとわりつく不気味な黒い靄が。
(やはり、間違いない……! ラザルド宰相が元凶だ!)
レオニスが一歩、また一歩とラザルドへ歩み寄る。
「ラザルド……そなた、レディナに何をした……!?」
沈黙が流れた。
そして次の瞬間、ラザルドの口元が、人間のものとは思えない角度へとゆっくりと歪んでいった。
「……ク、クク……クハハハハハハハ!」
謁見の間の高い天井に、不気味で耳障りな笑い声が響き渡る。
「ラザルド……? どうしたのだ、その笑いは……?」
あまりの異様さに、レオニスが思わず後ずさる。
ラザルドの瞳は、白目すらも塗り潰すように真っ黒に染まっていった。
「まさか、人間どもの分際で、我の正体を暴く者がいようとはな……。」
声が変わっていた。
それは長年聞き親しんだ宰相のものではなく、地獄の底から響くような、低く、冷たく、底知れぬ悪意を孕んだ声だった。
「貴様……何者だ! ラザルドではないな!」
レオニスが悲痛な叫びをあげる。
ラザルドの身体を操る“それ”は、気怠そうに頭を持ち上げた。。
「我が名は――ルシファー。それなりに名の知れた“悪魔”だ。」
ルシファーが放つ、空間そのものを押し潰すような圧倒的な存在感とプレッシャーに、子供たちは身動ぎ一つできずに立ち尽くしていた。
アインが小さく息を呑む。
「悪魔……!」
トーヤは家族を庇うように一歩前に出た。
「……やはり、ラザルド宰相の身体を乗っ取り、裏で糸を引いていたのはお前か。」
「あぁ、その通りだ。この国を効率よく乗っ取るには、一番都合の良さそうな器だったからな。」
ルシファーは愉悦に浸るように笑った。
だが次の瞬間、キッ!と忌々しそうにトーヤを睨みつける。
「だが……貴様のせいで台無しだ!」
一瞬だけ激しい苛立ちの表情を見せたが、ルシファーはすぐに元の淡々とした余裕の態度へと戻り、言葉を続けた。
「異世界人のようだが、大した力だ。王妃の呪いの解除も、先ほどの空間を揺るがす力の奔流も、すべて貴様の仕業だな? ……ふん、今の“分身体”の我では、少々分が悪いか。今日のところはおとなしく負けを認めてやろう。次はないがな……。」
ルシファーは不敵な、そしてどこまでも傲慢な笑みを浮かべながら言い放った。
「――ゼルディア帝国で待っている。次は、本体で相手をしてやろう。」
その言葉を最後に、黒い靄がラザルドの身体から激しく溢れ出し、天井近くまで一気に立ち上った。
そして、夜霧が風に溶けるように、すーっと気配ごと消え去っていく。
支えを失ったラザルドの身体が、人形の糸が切れたかのように床へと倒れ込んだ。
レオニスは呆然と、震える声で呟く。
「……ラザルド……。」
アインはトーヤの腕をぎゅっと握りしめた。
「トーヤさん……」
「あぁ、分かっている。まずは、ラザルドさんの手当てが先だ。」
トーヤは倒れたラザルドに駆け寄り、右手をかざして≪ヒール≫をかけた。
ほどなくして、ラザルドが大きく息を吸い込み、うっすらと目を覚ました。
「う、うぅ……陛下。私は、いったい何を……。」
「ラザルドよ。まずは休むが良い。話は後日、追って聞くこととする。」
レオニスは優しく、しかし重々しくそう告げると、疲弊しきった様子で玉座に深く腰かけた。
トーヤは静かに目を閉じ、胸の中でその不吉な名前を繰り返した。
「……ルシファー……そして、ゼルディア帝国……。」
その場にいた全員が、未だに目の前で起きた出来事を理解できずにいた。
先ほどまでの圧倒的な悪意の騒動が嘘のように、謁見の間は冷たい静寂に包まれていた。




