第54話 呪い
光のゲートを通り抜け、王城の内部へと足を踏み入れた瞬間――
ウェーノ家の四人は、肌を刺すような異様な不快感に襲われた。
城内の空気はどんよりと重く、まるで腐敗した沼の底にいるかのように淀んでいる。
「……なんだ、この最悪な空気は……。」
トーヤが不快そうに眉をひそめる。
ユーヤは自分の腕に鳥肌が立つのを感じながら、震える声で呟いた。
「これ、完全にゲームで言うところの“精神汚染デバフエリア”じゃん……。いるだけで体力が削られそうな感じがする……。」
アインはそっと胸に手を当て、城全体に渦巻く目に見えない気配を深く読み取った。
「……深い悲しみと底知れない不安、邪な気配……そして、何かに怯えるような強い“恐れ”の感情が、城の隅々にまで満ちているわ……。」
四人が警戒を高めたその時――
廊下の向こうから、「ウェーノ家の皆様……!」という悲痛な叫び声が響いた。
走ってきたのは、セレスティアの専属侍女であるミーナだった。
彼女の目はウサギのように真っ赤に腫れ上がり、息も絶え絶えで、今にもその場に崩れ落ちそうなほど疲弊しきっていた。
「ミーナさん! 落ち着いて。一体何があったの?」
アインが素早く駆け寄り、彼女の震える肩を優しく抱きしめると、ミーナは堰を切ったように涙をボロボロとこぼしながら訴えた。
「王妃様が……レディナ王妃様が、突然倒れられたのです……!」
「えっ……! 王妃様が……!?」
ユーヤが声を上げる。ミーナは震える声で続けた。
「王妃様は元々お身体が弱く、少し前から、原因不明の体調不良で寝込まれてはいたのですが……ここ数日で急激に容態が悪化いたしまして……。先ほど、王宮お抱えの最高医師たちが集まって診断を下したのですが……もう、持って“あとニ、三日”だろうと……!」
「そんな……、まさか……。」
アインは衝撃のあまり口元を押さえた。
ミーナはさらに涙を拭いながら、声を絞り出す。
「王女様は……セレスティア様は、あれからずっとお一人で、一歩も動かずに王妃様のベッドのそばに付き添っておられます……。夜も全く眠っておられず、お食事も喉を通らないご様子で……ただただ、お母様の名前を呼び続けておいでなのです……。」
「だから最近、あんなに元気がなかったのね……。一人でずっと、そんな苦しい状況に耐えていたなんて……。」
アインが痛ましそうに呟くと、トーヤがすぐさまミーナに鋭く告げた。
「ミーナ、案内してくれ。今すぐ王妃様とセレスティアのところへ。」
「は、はい……っ! こちらです!」
◆
案内されたレディナ王妃の寝室は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。
遮光カーテンは固く閉ざされ、薄暗い部屋の空気は冷たく、死の気配すら漂っている。
豪華な天蓋付きベッドの横――
そこに、血色を完全に失い、目の下に真っ黒な隈を作ったセレスティアが座っていた。
いつもの元気で眩しい笑顔はどこにもなく、今にも糸が切れて倒れてしまいそうなほど憔悴しきっている。
「セレスティア……!」
アインが声をかけて駆け寄ると、セレスティアは人形のようにゆっくりと顔を上げた。
「……あ……アインさん……。みんな……。」
その声はガラガラに枯れており、涙の跡で汚れた瞳には光がなかった。
「ごめんなさい……。私……もう、どうしたらいいか、分からなくて……。」
アインが彼女の小さな身体を優しく、強く抱きしめると、セレスティアは堪えていた感情が決壊したように、アインの胸に顔を埋めて子供のように激しく泣きじゃくった。
「……お母様が……お母様が死んじゃうの……! 私を置いて、どこかに行っちゃうの……!」
ベッドの上に横たわっているレディナ王妃は、確かにまるで眠っているだけのようにも見えた。
しかし――
その身体からは、生命活動を営むための“生気”がほとんど感じられず、まるで魂の抜け殻のようになっていた。
トーヤは何も言わず、すぐにベッドの横へと立ち、王妃の身体の上にそっと右手をかざした。
脳内のスキルツリーから、解析魔法を選択する。
「――《スキャン》。」
トーヤの手のひらから放たれた淡いグリーンの光が、王妃の身体を優しく包み込んだ。
瞬時に、王妃の身体の内部構造、魔力の流れ、そして現在起きている“異常”のすべての情報が、データとしてトーヤの脳内へと流れ込んでくる。
解析を終えたトーヤの目が、鋭く見開かれた。
「……やはりな。これは病気なんかじゃない。」
「え……?」
アインの胸の中で、セレスティアが涙に濡れた顔を上げた。
トーヤはこれまでにないほど険しい表情で言い放った。
「――これは“呪い”だ」
「呪い……!?」
ユーヤとソーヤが同時に息を呑む。
「しかも、ただの呪いじゃない。かなり高度で陰湿な術式だ。本人の生命力を、周囲に気づかれないよう毎日少しずつ削り取り、最終的に衰弱死に見せかけて命を奪うタイプの、極めて悪質な呪詛だ。」
「そんな……っ、誰が、どうしてお母様にそんな酷いことを……!」
セレスティアが絶望に身体を震わせる。
だが、トーヤは彼女の肩をそっと叩き、力強い声で言った。
「犯人の話は後だ。セレスティア、まずは王妃様を救う。安心しろ、俺がいる。」
トーヤは再び手をかざし、その魔力を一気に解放した。
王城の全域を揺るがすほどの圧倒的な神聖魔力が、彼の周囲に吹き荒れる。
「――《ディスペル》。」
ドォォォン! と部屋全体が眩い白銀の光で満たされた。
その瞬間、レディナ王妃の身体から、まるで悲鳴を上げるかのようにドス黒い不気味な靄が立ち上り――トーヤの光に押し潰されるようにして、跡形もなくふっと霧散した。
続けて、トーヤは間髪入れずに次の呪文を紡ぐ。
「――《エクストラ・ヒール》」
今度は、まるで春の木漏れ日のように温かく、柔らかな黄金の光が王妃の身体を満たしていった。
呪いによって限界まで失われていた生命力が、規格外の速度でみるみるうちに充填され、枯れ果てていた肌に瑞々しい血色が戻っていく。
そして――。
「……う……ん……。」
ピクリと、王妃の指先が、僅かに動いた。
「お母様……っ!?」
セレスティアが叫ぶようにベッドにしがみつく。
レディナ王妃は、長い睫毛を震わせながら、ゆっくりと、しかし確かな光を宿したその目を開けた。
「……セレス……ティア……? 私は……一体……。」
「お母様ぁぁぁぁぁ!! よかった、本当によかったぁぁぁ!!」
セレスティアは声をあげて泣きながら王妃の胸に飛び込み、その異変を聞きつけて廊下から血相を変えて駆け込んできたレオニス国王も、妻の手を強く握りしめた。
「レディナ……! ああ、レディナ……! 神よ、我が妻を救ってくださり、感謝いたします……!」
その感動的な家族の再会を、アインも目元をハンカチで拭いながら、優しく微笑んで見守っていた。
◆
王妃の容態が完全に安定し、穏やかな眠りについたのを確認した後、ウェーノ家の四人は静かに寝室を後にし、いったん客室へと移動した。
廊下に出た途端、緊張が解けたユーヤとソーヤが、涙ぐみながらトーヤに詰め寄る。
「いや、マジで焦ったけど……さすが父さん! カッコよすぎるよ!」
「ホントによかった……。一時はどうなるかと思ったけど、父さんのチート魔法があれば、どんな呪いだって一発だもんな!」
弟たちの歓喜の声が響く中、しかし、トーヤとアインの表情は、依然として少しも晴れてはいなかった。
しばらくすると、寝室から出てきたレオニス国王が、疲れ切った、しかし深い感謝を湛えた足取りでトーヤたちの元へと歩み寄ってきた。
「……トーヤ殿。本当に、何とお礼を言ってよいか分からない。我が最愛の妻を、この国の光を救ってくれて……本当に、ありがとう。」
トーヤはいつもの冷静な表情のまま、静かに一礼した。
「レディナ王妃が無事で、本当に何よりです。セレスティアの笑顔も、これで戻るでしょう。」
そして――
トーヤはスッと目を細め、声のトーンを一つ落とした。
「レオニス王。二人きりで話したいことがあります。非常に、深刻な話です。」
そのトーヤのただならぬ気配を察し、レオニス国王も王としての表情を引き締めた。
「……分かった。私の執務室へ場所を移そう。」
トーヤは歩き出しながら、心の中で静かに思考を巡らせていた。
(呪いの術式は完全に解析し、根絶した。レディナ王妃の身体はもう大丈夫だ。だが……本当の危機は、まだ何一つ去ってはいない……。レオニス国王には、これから、一国の王としての重い覚悟を持って俺の話を聞いてもらう必要がある。)
ウェーノ家の物語は、この王都の夜を境に、これまでとは違う“新たな局面”へと、確実に進み始めようとしていた。




