第52話 初めての風邪
みんなで楽しくピクニックへ行った日から、数日が経ったある朝。
いつもの賑やかなウェーノ家のリビングは、どういうわけかいつもより静まり返っていた。
「……あれ? おかしいな。リィナは? まだ起きてないの?」
朝食のテーブルについたユーヤが、不思議そうに首をかしげた。
普段であれば、朝一番に誰よりも早く起きてリビングに現れ、完璧な手際で部屋の片付けや朝食の手伝いを始めているはずのリィナが、今日は一向に姿を見せないのだ。
「おかしいわね。声をかけても返事がないし……ちょっと様子を見てくるわね。」
アインが心配そうな表情を浮かべて階段を上がり、リィナの部屋へと向かった。
トントン、と静かに扉をノックする。
「リィナちゃん? 朝よ〜、起きてるかしら?」
しかし、部屋の中からはかすかな衣擦れの音が聞こえるだけで、いつもの凛とした返事は返ってこない。
アインがそっと扉を開けて中に入ると――。
そこには、ベッドの中で小さな身体を毛布にくるめ、丸くなっているリィナの姿があった。
いつもは透き通るように白い彼女の頬が、ほんのりと赤く染まっており、呼吸も少しだけ浅く、早い。
「……あ、アイン……さん……?」
リィナの口から漏れたのは、今にも消え入りそうな、かすれた声だった。
「まぁ〜〜〜〜! どうしたの、リィナちゃん!?」
アインは慌ててベッドサイドへと駆け寄った。
リィナはゆっくりと身体を起こそうとしたものの、目眩を覚えたようにふらりとベッドの上で揺れる。
「……分かりません……。身体が、信じられないほど……重い……です……。思うように、四肢の駆動が……できません……」
アインはリィナの額に、そっと自分の手のひらを当てた。
「大変、すごく熱があるわ……!」
「えっ!? リィナが風邪!?」
アインの声を聞きつけて、ユーヤが慌てて部屋に飛び込んできた。
その後ろからはソーヤやトーヤも心配そうに顔を出す。
「NPCって……ゲームのキャラクターって、風邪をひいたりするのか!?」
ユーヤが驚愕の声を上げると、ソーヤもリィナを観察しながら目を丸くした。
「いや、普通ならあり得ないだろ。プログラムデータのウイルスならともかく、生物的な風邪なんて……。」
すると、トーヤが静かに腕を組み、真剣な表情でリィナを見つめながら口を開いた。
「……いや、あり得ない話じゃない。リィナはもう、“ただのNPC”ではなくなっているということだ。この世界の理に触れ、心を持ったことで、彼女の存在そのものが生身の『人間』へと変化しつつあるんだろう。」
その言葉を聞き、部屋の隅で見守っていたリルとミラも、ベッドの横へとトコトコと駆け寄った。リィナの熱い手を、二人の小さな手でそっと握りしめる。
「……リィナ……大丈夫……?」
「……苦しい? 無理しちゃ、だめだよ……。」
リィナは二人に向けて、弱々しく、申し訳なさそうに微笑んだ。
「……すみません、皆様……。私は、何か重大な“システム不具合”を……起こしてしまったのでしょうか……?」
そんな彼女に対し、アインは優しく首を振り、乱れた銀髪をそっと整えてやった。
「違うわよ〜、リィナちゃん。これは不具合なんかじゃないの。これはね、“風邪”っていうのよ。生きている人間なら、誰だってよくなるものなの。」
リィナは、熱に浮かされる瞳をパチパチと瞬かせた。
「……私が……“人間の病気”に……?」
「そうだよ! つまりさ!」
ユーヤがリィナの前に乗り出し、元気づけるように胸を張って言った。
「リィナが、それだけ本物の人間に近づいてるってことじゃん! バグなんかじゃなくて、すごい進化だよ!」
「……私が……人間に……進化……?」
リィナが驚いたように自分の胸元に手を当てると、ミラが静かに微笑んだ。
「……うん。リィナは、もう綺麗な“心”を持ってるから。」
リルも優しく言葉を続ける。
「……心があるから、身体もこの世界の一部になろうとして、一生懸命馴染もうとしているんだよ。」
アインはリィナの布団を優しくかけ直し、包み込むような笑顔を向けた。
「だから、今日は何も心配しないで、ゆっくり休んでちょうだいね〜。」
その時、部屋の扉がすこしだけ開き、ころころと丸い大きな毛玉――モフが部屋へと入ってきた。
「もふ……!」
モフはベッドの上の異変を察知したのか、ピョンッとベッドの上へ飛び乗り、リィナの胸元にそのふわふわの顔を心配そうにすり寄せた。
「もふ……もふ……。」
すると、モフの身体から淡く温かい光が放たれ、リィナの身体を優しく包み込み始める。
「あ、そうだ! モフ!」
それを見たユーヤが声を上げた。
「モフの能力なら、リィナの風邪を一瞬で吸い取って治せるんじゃないか!?」
しかし、それを聞いたトーヤは静かに首を振ってユーヤを制した。
「いや……風邪というものは、身体の中に侵入した異物と戦い、免疫をつけるための“必要な反応”なんだ。悪い呪いや毒とは違う。リィナの身体が人間に成長するための大切なプロセスだから、モフがすべてを吸い取りすぎてしまうと、逆に身体が世界に馴染むのが遅くなってしまう可能性がある……。」
「もふ……?」
トーヤの解説を聞いたモフは、役に立てなかったと思ったのか、耳のような毛をペタンと寝かせてしょんぼりとしてしまった。
だが、リィナはそのふわふわの毛並みを、熱を持った手で優しく撫でてやった。
「……ふふ、ありがとう、モフ……。お気持ちだけで……十分に機能しています……。」
「もふっ!」
褒められたモフは、嬉しそうにリィナの足元で丸くなり、一緒に看病する体制に入った。
◆
昼過ぎ。
少しだけ熱が落ち着いたのか、リィナはゆっくりと目を覚ました。
窓から差し込む木漏れ日が、室内の床の上で優しく揺れ、心地よい風がカーテンをふわりと揺らしている。
「……身体の内部が……とても熱いです……。」
リィナは自分の手のひらを見つめ、静かに呟いた。
「これが……“風邪”という現象……。」
胸の奥が、じんわりと温かく、けれど少しだけ苦しい。
(……このような、不快感を伴うのにどこか愛おしい感覚……ゲーム世界には、絶対に存在しませんでした……。でも、不思議と……嫌な気持ちにはなりません……。これも……私が“生きている”という、何よりの証明なのでしょうか……?)
そんなことを考えていると、部屋の扉が静かに開き、アインが湯気の立ち上る温かいスープを持って入ってきた。
「リィナちゃん、少し目が覚めた? 何か食べられそうかしら?」
「……はい。アインさん……ありがとうございます。」
リィナはゆっくりと身体を起こし、アインから手渡されたスプーンを口に運んだ。
――じわり、と温かいお汁が口の中に広がる。
「……あったかい……です……。そして、やっぱり……とても、美味しいです……。」
アインは母親の優しい微笑みを浮かべた。
「風邪をひいたときはね、こうやって温かいものをたくさん食べて、たくさん眠るのが一番の特効薬なのよ〜。」
リィナはスープの器を持ったまま、もう一度胸に手を当てた。
「……アインさん……。私は今、身体が“苦しい”はずなのに……。どうしてでしょう、心が、とても“嬉しい”と感じています……。」
アインはそっとリィナの小さな手を、自分の両手で包み込んだ。
「それはね、リィナちゃん。あなたがただのデータなんかじゃなくて、周りのみんなの優しさを感じ取れる、立派な“人間の心”を持っているからよ。」
◆
その日の夜。
リィナの熱はさらに少しだけ下がり、彼女は静かに夜空を見つめていた。
窓の外には、満天の星々が、まるで彼女のこれからの未来を祝うかのように美しく瞬いている。
(……私は……。元々は、誰かに作られたNPCとして生まれたけれど……。今は……。この温かい世界で、私という一人の存在として、確かに生きている……。)
胸の奥が、かつてないほど温かく、激しく震えた。
「……マスター……。ユーヤ……。私……もっと、この世界をたくさん知りたいです……。もっと……本当の“私”に、なりたい……。」
その瞬間――
リィナの胸の奥深くで、小さな、けれど決して消えることのない純粋な光が、ふわりと灯った。
それはまるで、彼女の中に宿った“心臓”が、初めて自分の意志で、強く優しく脈打った瞬間でもあった。
◆
翌朝。
リィナの熱はまだ微かに残っていたものの、昨日とは見違えるほどすっきりと元気な顔立ちになっていた。
「リィナ! 大丈夫か!?」
朝一番に、ユーヤが勢いよく部屋の扉を開けて飛び込んでくる。
リィナはベッドの上で綺麗に腰掛け、彼に向けて優しく微笑んだ。
「……はい、マスター。まだ少しだけ熱の余韻がありますが……。“生きている”という強い実感が、身体を満たしています。」
ユーヤはリィナの元気そうな笑顔を見て、ホッとしたように胸をなでおろし、照れくさそうに頭を掻いた。
「そっか……! よかった、本当に心配したんだからな。」
リィナはベッドからそっと足を下ろし、自分の胸に手を当ててユーヤを真っ直ぐに見つめた。
「……マスター。……私、もっともっと、“人間”になりたいです。皆さんのような、温かい人間に。」
ユーヤは驚き、そしてこれ以上ないほど嬉しそうに破顔した。
「当たり前じゃん! じゃあ、これからも一緒にいろんな場所に行って、いろんなことして、楽しい思い出をたくさん作ろう!」
リィナは静かに、けれど強く頷いた。
「……はい。あなたと一緒に……本物の“私”を見つけたいと思います。」
こうして――
元NPCのリィナは、初めての“風邪”を引き、
初めて自分の“弱さ”を知り、
そして、初めて“人間としての確かな一歩”を歩み始めたのだった。
ウェーノ村の朝は、今日もそんな彼女を祝福するように、優しく、暖かく始まる。




