番外編 癒しを求めて
アトレイア王城の朝。
洗面台の鏡の前に立つ侍女ミーナは、自分の顔をまじまじと見つめ、絶望的な声で呟いた。
(……目の下のクマが、お化粧で隠しきれないレベルになっていた……。)
それもそのはずである。
セレスティア王女の“ウェーノ村通い”は週にニ回。
レオニス国王の“ウェーノ村視察”は週に一回。
そのたびに、酔い止めの薬を飲みながら高速魔導馬車での長距離移動に付き合わされ、村に着けば常識外れのカオスな騒動に対処し、竜王家の面々と遭遇しては冷や汗を流し、そして自由奔放に暴れ回る王女と国王のブレーキ役を務める日々。
(……このままじゃ……私、本当にいつか過労で倒れるわ……。)
限界を悟ったミーナは、ついにその日の午後、国王と王女の前に膝をつき、深く頭を下げた。
「陛下……王女様……私……数日間の休暇をいただきたく存じます……。」
セレスティアは目を丸くして驚いた。
「えっ……ミーナが!? 働き者のミーナが休むなんて、珍しいわね!」
レオニスも驚愕して身を乗り出す。
「お前が休暇を!? そ、そんな……お前がいなくなったら、誰がセレスティアの暴走を止めるのだ!」
ミーナは震える声で、しかし強い決意を持って言った。
「このままでは……私が精神的にも肉体的にも、本当に……倒れてしまいます……。」
その切実すぎる顔色を見て、さすがの王女と国王も顔を見合わせた。
「……仕方ないわね。ミーナにはいつも苦労をかけてるし……。」
「……うむ。これ以上の無理はさせられん。特別に許可しよう。」
ミーナは深く深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
(……やっと……やっと休める……! 何も考えず、ゆっくり寝て、綺麗な景色でも見て癒やされるんだ……!)
◆
念願の休暇を得たミーナは、私服に着替え、“誰にも邪魔されず、静かに癒される場所”を求めて、一人で王都周辺の観光地を巡る旅に出た。
まずは、王都近郊で有名な『高級温泉宿』へ。
(ふふ……ここでゆっくりお湯に浸かって、日頃の疲れを……。)
しかし、隣の宴会場から聞こえてくる客たちの声が耳に入る。
「聞いたか? 王女様が最近、謎の村に通い詰めてるらしいぞ。」
「まさか異世界の王子様と駆け落ちか!?」
(……うっ、せっかく温泉に来たのに、王女様の噂話で全然心が休まらない……!)
次は、少し足を伸ばして『静かな湖畔のリゾート地』へ。
(ここなら、波の音を聞きながら静かに本でも読んで……。)
しかし、湖から美しい歌声が聞こえてくる。
「あぁ〜♪ 美しき水よ〜♪」
(……マーメル族の歌声!? なんでここにまで!? 逆に村の騒動を思い出して胃が痛くなる……!)
最後は、誰もいない『深い森の静寂』へ。
(ここなら大丈夫。ただの木と自然しかない……。)
しかし、大きな木を見上げるたびに、
(……この木、突然動き出したり、喋り出したりしないわよね……? トレント族の気配がフラッシュバックする……。)
と、ビクビクしてしまい、全く心が休まらなかった。
(……どうしよう。どこに行っても、何を見ても、結局お仕事のことや村のカオスを思い出して、なんだか落ち着かない……。)
途方に暮れて歩き続けたミーナの足は、無意識のうちに、ある方向へと向かっていた。
そして、気づけば――
彼女は、ウェーノ村の入り口に立っていた。
◆
「……あれ?」
村の入り口に立った瞬間、ミーナは思わず深く息を吸い込んでいた。
(……なんだろう。ここ……すごく空気が美味しい。それに……妙に落ち着く……?)
そのとき――
「あら、ミーナちゃん、いらっしゃい〜。」
洗濯籠を持ったアインが、いつもと変わらない温かい笑顔で手を振っていた。
「今日は一人なの? お仕事はお休み?」
「さぁさぁ、上がってお茶でも飲んで、ゆっくりしていってちょうだい〜。」
「……アインさん……。」
アインのその優しすぎる声を聞いた瞬間、ミーナは張り詰めていた糸が切れ、思わず涙ぐんでしまった。
家の中から、リルとミラも小走りで駆け寄ってくる。
「……ミーナ、すごく疲れた顔してる。」
「……お茶、私がいれるね。」
二人はミーナの冷たい手を引き、縁側の最も日当たりが良くてゆっくりできる特等席へと案内した。
温かいハーブティーの香り。
頬を撫でる優しい風。
村の心地よい、穏やかな生活音。
ミーナはティーカップを両手で包み込み、心からの安堵の息を吐いた。
「……あぁ……癒される……。」
クロ(竜姿)もトコトコと寄ってきて、ミーナの膝にちょこんと顎を乗せて甘える。
「眠い……。」
ハクもパタパタと飛んできて、ミーナの胸元にすり寄る。
「キュルル……。」
ミーナは彼らを優しく撫でながら、久しぶりに心からの笑顔を見せた。
そして、ぼんやりと思った。
(……ここに住めたら……どれだけ心が楽だろう……。いっそ、筆頭侍女なんていう重責をやめて……この村に移住して、アインさんのお手伝いでもしながらのんびり暮らす……? ……ふふ、そんな選択肢……案外、ありなのかもしれないわね……。)
ミーナが、真剣に村への移住計画を頭の片隅で思い描き始めた、まさにそのときだった。
「あれ!? ミーナじゃない!」
聞き慣れた、そして今一番聞きたくなかった声が、背後から響いた。
(……え?)
恐る恐る振り返ると――
そこには、砂煙を上げて到着した高速魔導馬車から降りてくる、レオニス国王とセレスティア王女の姿があった。
(なんで来るのよぉぉぉぉ!! 今日は公務の日でしょうがぁぁ!)
「ミーナ! お前、休暇中なのにどうして村にいるのだ!?」
「もう、村に来るならそう言ってくれればよかったのに! 水臭いわね!」
「せっかくだから、今日は私たちと一緒に村を遊び回りましょう!」
セレスティアの無邪気な提案に、ミーナは顔面を蒼白にさせた。
(……やめて……! 私は今日こそ、誰の世話もせずに静かに休みたいの……!)
ミーナは震える声で絞り出した。
「申し訳ありません……。私は……ゆっくり、一人で休みたいのです……。」
レオニスとセレスティアは、不思議そうに顔を見合わせた。
「ゆっくり……?」
「せっかくの休暇でこんなに楽しい村に来ているのに、寝て過ごすの……?」
「……はい……。」
休暇=全力で遊んで愉しむもの、という考えしか持たない王族の二人には、ミーナの「ただ何もせずに休みたい」という究極の疲労からくる願いは、到底理解できなかった。
「さぁ、行くわよミーナ! まずは獣人族のアスレチックよ!」
ミーナは、手を引かれそうになった瞬間、持てる全力を振り絞って逃げるように村の奥へ向かって走り出した。
◆
ミーナが息を切らして辿り着いたのは――
ウェーノ家の奥にある、“隙間の庭”へのゲートだった。
追いかけてきたリルとミラの優しい誘いでゲートをくぐると、そこには見渡す限りの紫の空と、星屑のように静かに瞬く光の海が広がっていた。
「……きれい……。」
(……ここなら……王女様たちも追ってこれないし……誰も来ない……。)
ミーナはその場にへたり込むように座り込み、ついにポロポロと涙をこぼし始めた。
「私……休暇中なのに……なんで……なんでこんなに逃げ回らなきゃいけないの……。」
リルがそっと隣に座り、ミーナの肩に寄り添う。
「……ミーナ、いつも頑張りすぎだよ。」
ミラも反対側に座り、ミーナの背中を優しく一定のリズムで撫でた。
「……ここは、すごく静か。時間もゆっくり。なにも気にしないで、ゆっくりしていいよ。」
ミーナは涙を拭いながら、二人の優しさに心から微笑んだ。
「ありがとう……二人とも……。」
リルはミーナの震える手を、両手でしっかりと握りしめた。
「……また疲れたり、逃げたくなったら、いつでもここに来てね。」
ミラも深く頷く。
「……私たちが、ミーナの休み時間、守るから。」
ミーナの冷え切っていた胸が、じんわりと温かさで満たされていくのを感じた。
「……本当に……ありがとう……。」
(……私の唯一の安息の地……。……それは高級リゾートでも温泉でもなく……この静かで温かい、二人といる“隙間の庭”だったのね……。)
ミーナは、誰にも邪魔されない静寂の中で、そっと目を閉じた。
“庭”の柔らかな光が、過労気味な侍女の疲れを、毛布のようにそっと包んで、優しく溶かしていった。




