第36話 竜王国の日常
竜王国――
天空に浮かぶ巨大な城塞都市アル=ヴァルハ。
雲海を突き抜けてそびえ立つ黒曜石の塔が連なり、空には無数の竜が悠然と舞い、地上では屈強な竜人族が行き交う、大陸のいかなる国家も不可侵とする絶対的な強者の国である。
黒竜王アルグレオス(アレグ)と赤竜妃エルヴァリシア(エル)、そして新たに誕生した白竜のハクノア(ハク)が帰還したことで、国中が歓喜に沸き立っていた。
王城の中心に位置する、厳かな玉座の間。
黒い大理石の床に、竜王家を象徴する巨大な紋章が鈍く輝いている。
アルグは玉座に深く腰を下ろし、王者の威圧感を纏った鋭い眼光で、ひれ伏す臣下たちをぐるりと見渡した。
「次の議題だ。北方の火山地帯にて観測された魔力異常について、直ちに報告せよ。」
「はっ! 現在、先遣の調査隊を派遣し、状況の把握に努めております!」
「遅い。もたもたしている間に被害が拡大するやもしれぬ。三隊、追加で送れ。空からの監視も怠るな。」
「は、はいっ! 直ちに手配いたします!」
その低く腹の底に響くような声は、まさに絶対的な君主そのものであり、ウェーノ村で「帰らん!」と駄々をこねていた姿とは完全に別人のようだった。
もしソーヤがこの光景を見たら、間違いなく真顔で(……あれ、誰?)とツッコミを入れていただろう。
しかし、そんなアルグの裏の顔など知る由もない臣下たちは、身を震わせながらも、「やはり我がアルグレオス陛下は偉大だ……!」と、その圧倒的な威厳に感動の涙を流していた。
◆
一方その頃、王城前の広場では――
エルが純白の布に包まれたハクを優しく抱きかかえ、集まった数万の国民の前に立っていた。
「愛する民たちよ。紹介します。この子が、竜王家に新たに誕生した家族――“ハクノア”です。」
「キュルッ!」
ハクが澄んだ水晶のような瞳を瞬かせ、愛らしく鳴き声を上げた瞬間、広場を埋め尽くす国民たちから地鳴りのような歓声が上がった。
「おおぉぉ……なんと神々しい……!」
「純白の竜の誕生など、建国以来何百年ぶりの吉兆だ!」
「これで竜王家は永遠に安泰だ! 万歳!」
エルは優雅に微笑みながら、熱狂する国民一人ひとりに向けて丁寧に手を振り、挨拶を返していく。
その姿は慈愛に満ちており、まさに竜王国を包み込む“国母”そのものであった。
◆
数時間後。
緊迫した政務会議を終え、玉座の間から出てきたアルグは、周囲に臣下がいないことを確認するなり、猛ダッシュでエルの私室へと駆け込んだ。
「ハクぅぅぅ! 会いたかったぞぉぉ!」
「キュルッ!」
アルグは硬い大理石の床に躊躇いもなく両膝をつき、エルからハクを受け取ると、その小さな身体を大切そうに抱きしめ、自分の頬にすりすりと思い切り頬ずりをした。
「あぁぁ、今日も世界で一番可愛いなぁぁぁ! 父上はお前のためなら国でも何でもくれてやるぞぉぉ!」
「キュルルッ♡」
たまたま書類を届けに来て、開いたドアの隙間からその光景を目撃してしまった臣下たちは、見なかったことにして静かに扉を閉めた。
(陛下……?)
(さっきまでの背筋が凍るような威厳は、一体どこへ……?)
エルは呆れたように小さくため息をつきながら、夫をたしなめる。
「あなた、外では厳格な国王として振る舞っているのだから、誰かに見られたら威厳が台無しよ……。」
「む、無理だ! ハクのこの愛らしさを前にして、威厳など保てるはずがなかろう!」
アルグは真剣な顔で言い切り、再びハクの柔らかいお腹に顔をうずめた。エルはもう何も言わず、ただ苦笑するしかなかった。
◆
その夕暮れ時。
王城の裏門に繋がる薄暗い通路で――。
黒いマントを深く被り、足音を忍ばせてこそこそと歩く、不審な大男の姿があった。
(ふふふ……終わりの見えない書類仕事など、もう真っ平だ。今なら誰にも気づかれずに、こっそり村へ飛んで息抜きを――)
「アルグ。」
背後から、氷のように冷たく、絶対的な圧を伴う声が響いた。
「ひっ!」
アルグがビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには腕を組み、般若のような(しかし美しい)笑顔を浮かべたエルが立っていた。
「あなた。国王が“こっそり脱走”なんて、一体どういうつもりかしら?」
「ち、違うのだエル! これは……その……夜風を浴びるための、散歩だ! そう、散歩!」
「こんな時間に? マントで顔を隠して?」
「……。」
「散歩なら、正門から堂々と護衛を連れて行きなさい。」
「うぅ……。」
エルは深くため息をつき、逃げようとするアルグの耳を容赦なく引っ張り、執務室へと引きずって戻った。
「痛い痛い痛い!! エル、ちぎれる! 耳がちぎれる!」
通路を通りかかった臣下たちは、全員揃って綺麗に(見て見ぬふり)を貫いた。
◆
その日の夜。
王城の広大なバルコニーで、アルグは一人、冷たい夜風に吹かれながら、はるか遠くの星空を見上げていた。
「……村の飯が恋しい……。」
威風堂々たる黒竜王の口からこぼれ落ちたのは、あまりにも所帯染みた悲痛な呟きだった。
「アイン殿の、あの心に染み渡るシチュー……。トーヤ殿の、落ち着き払った声……。ソーヤの、常識を覆すワクワクする創造……。ユーヤの、あの騒がしくも心地よい笑い声……。リルとミラの、純粋で優しい気配……。」
「そして……何より、愛しき我が子、クロ……。」
いつの間にか隣に歩み寄っていたエルが、夜風に赤髪を揺らしながらそっと寄り添う。
「あなた、本当にあの村が好きなのね。」
「うむ。あそこは……王としての重圧も、しがらみも全て忘れ、ただの一人の父親として心が休まる。真の楽園だ。」
エルはクスクスと笑い、アルグの腕にそっと手を添えた。
「もう少しだけの我慢よ。溜まっている政務が片付いたら、またみんなで会いに行きましょう。」
「……本当か? 本当にすぐ行けるのか?」
「ええ、約束するわ。」
アルグの鋭い瞳が、まるで餌を待つ犬のようにパァッと輝いた。
◆
数日後。
エルの厳しい監視と、臣下たちの必死の協力のもと、山積みだった政務がようやくすべて片付いた。
「……終わった。」
執務室の机に突っ伏していたアルグは、最後の書類に決裁のサインを書き終えた瞬間、バンッと勢いよく立ち上がった。
「終わったぁぁぁぁ!! これで! これで村に行けるぞ!!」
「キュルッ!」
空気を感じ取ったハクも、アルグの頭の上でバンザイをするように嬉しく鳴く。
エルはそんな夫の姿に苦笑しながら、手早く荷物をまとめた。
「じゃあ、行きましょうか。クロも、村の皆さんも、きっと待っているわ。」
アルグは感動のあまり滝のような涙を流しながら、天に向かって叫んだ。
「エル……! お前という妻を持てて、我は本当に幸せだ! 愛しておるぞぉぉぉ!」
「はいはい、わかったから早く行きましょうね。」
こうして――
竜王家は、威厳を王城に置き去りにしたまま、再び愛すべきウェーノ村へと全速力で飛び立つのだった。




