第35話 しばしの別れ
クロの妹である白竜のハクノアが誕生してから、ウェーノ村はさらに常軌を逸した賑やかさを見せていた。
エルフは毎日ハクのために祝福の花冠を編み、獣人族の子どもたちはハクを背中に乗せて大はしゃぎで走り回る。
ドワーフは「白竜様の誕生祝いだ!」と工房で勝手に新しい鐘を鋳造して鳴らし、マーメル族は池でハクの子守唄を歌うのが日課になっていた。
そんな中、クロの両親――
黒竜王アルグレオスと赤竜妃エルヴァリシアは、王族としての威厳をすっかり忘れ、村でのスローライフに完全に馴染みきっていた。
ある朝、アインが庭で洗濯物を干していると、アルグレオスが村の入り口で腕を組み、深く頷いていた。
「ふむ……この村は、実に良い。」
「まぁ〜、アルグレオスさん。今日も朝からお散歩ですか?」
「うむ。ここは風の通りが良い。森の気配が良い。何より食事が極上だ。」
「そして……家族が、村のみなが、誰も彼も心底楽しそうに笑っておる。」
エルヴァリシアも、ハクを抱きながら優雅に微笑む。
「アインさんのお料理も本当に美味しいし、村のみんなも優しいし……。」
「私たち、お城の窮屈な生活を忘れて、ずっとここに住んでしまいたいわ。」
アインは嬉しそうにパンッと手を叩いた。
「もちろんよ〜! ずっと住んでちょうだい、大歓迎だわ〜!」
その言葉に、アルグレオスは少し照れくさそうに咳払いをした。
「……その、だな……。」
「我らのことは、堅苦しい王だの妃だのではなく、“アルグ”と“エル”と呼んでくれて構わん。」
「えっ?」
ソーヤが驚いて振り返ると、アルグレオスはふんぞり返って胸を張った。
「うむ。村の仲間であり家族であるのだ。堅苦しい呼び方など、この村には不要であろう?」
エルヴァリシアも優しく頷く。
「ええ。もう私たちは、家族みたいなものだもの。」
クロは「そうだそうだ」とばかりに嬉しそうに尻尾を振った。
「キュイッ!」
◆
しかし、その日の昼過ぎ。
村の上空に、数体の巨大な影が突如として現れた。
「……あれ、またドラゴン?」
ユーヤが空を指さす。
黒と金の荘厳な紋章が刻まれた鎧を身に纏う竜人族の騎士たちが、村の中央広場へと一斉に降り立った。
「竜王陛下! 竜妃殿下! 長らくお探ししておりました!」
アルグは腕を組み、王としての威厳をすぐさま取り戻して重々しく答える。
「うむ。大儀であった。」
エルも優雅に微笑む。
「心配をかけてしまったわね。ごめんなさい。」
使者の騎士長は、深く頭を下げて懇願した。
「どうか……直ちに竜王国へお戻りください! 国王不在の期間が長く、竜王国はあなた方の裁決を必要としております!」
村の空気が、一瞬だけピンと張り詰めた。
アルグは堂々と胸を張り、重々しく、しかしハッキリと言い放った。
「断る!」
使者たちが、ピキッと凍りついた。
「へ……?」
アルグはこれ見よがしに続けた。
「我はここが気に入った。静かで、平和で、飯がとてつもなく美味い。極めつけに、クロディアスもハクノアも、最高に楽しそうだ。」
エルが困ったように苦笑する。
「あなた……。」
使者は慌てふためきながら言葉を続ける。
「で、ですが陛下! 王国の政務が山積みでして、書類の山が王室を埋め尽くして――」
「知らん!」
アルグは子どもが拗ねるように、プイッとそっぽを向いた。
「我は帰らん! 絶対に帰らんぞ! 政務など知るか! ここが良い! 村が良い! アイン殿のシチューが良い! 我はここに住むのだぁぁぁぁ!!」
村中が、しーんと静まり返った。
ソーヤが小声で冷たく呟く。
「……竜王の威厳、完全に粉砕したな……。」
ユーヤは笑いをこらえきれずに肩を震わせている。
「アルグさん、完全に駄々っ子じゃん……。」
リルとミラは目を丸くして顔を見合わせていた。
「……かわいい。」
「……王様なのに、お茶目。」
エルは深いため息をつき、アルグの肩にそっと手を置いた。
「あなた。落ち着いてちょうだい。」
「いやだ! 帰らん! 帰らんぞ! 我はここに――」
「アルグレオス。」
エルが優しく、しかし有無を言わさぬ“妻の絶対的な圧力”を込めた声で呼んだ。
アルグはビクッと肩を震わせ、ピタッと固まった。
「……はい。」
エルはニッコリと微笑んだ。
「一度、ちゃんと国へ帰りましょう。ハクノアも生まれたばかりだし、国のみんなにも顔を見せて安心させてあげたいわ。」
「で、でも……。」
「大丈夫。政務を片付けたら、またすぐここに戻ってくればいいのよ。」
アルグは耳を垂らした犬のように、しょんぼりとうなだれた。
「……戻ってきても、本当に良いのか?」
アインは変わらぬ笑顔で大きく頷いた。
「もちろんよ。アルグさん、エルさん、ハクちゃん。いつでも帰ってきていいのよ〜。あなたたちのお部屋はそのままにしておくから。」
アルグの鋭い目に、ぶわっと涙が潤んだ。
「……うぅ……。この村……本当に最高だ……好き……。」
使者たちが急いで帰還の準備を整え、エルがハクを抱き、アルグがその隣に立つ。
クロはその前に立ち、別れを惜しむように必死に鳴いた。
「キュイッ! キュイッ!!」
エルが膝をつき、クロを優しく抱きしめる。
「クロ……お留守番、お願いね。すぐ戻ってくるから。」
アルグもクロの小さな頭を力強く撫でた。
「男なら泣くな……と普段なら言うところだが……今は、少しだけ泣いても良いぞ。」
クロは小さく震えながら、エルの胸にぎゅっとしがみついた。
「キュ……キュイ……。」
リルがそっと歩み寄り、クロの背中を優しく撫でる。
「……大丈夫。私たちも一緒にいるから。すぐ会えるよ。」
ミラも優しく寄り添い、クロを包み込むように手を添えた。
「……一緒に、待っていよう。」
ソーヤとユーヤもクロの隣に立ち、笑顔で励ます。
「クロ、お父さんたちが帰ってくるまで、俺たちといっぱい遊ぼうな。」
「寂しくなったら、夜は僕の部屋で一緒に寝ていいからね!」
アインは涙ぐみながら優しく言った。
「クロちゃん……お兄ちゃんとして、お留守番頑張るのよ〜。」
トーヤも静かに頷き、見送る準備をした。
「家族を信じて待とう。必ず戻ってくるさ。」
◆
アルグとエルは最後に村全体を振り返り、王族としての礼ではなく、一人の家族として深く頭を下げた。
「必ず戻る。みんな、クロディアスを頼む。本当にありがとう。」
そして――
竜王家の三人は、力強く空へと舞い上がった。
クロはその姿が雲の彼方へ見えなくなるまで、ずっと空を見上げていた。
「キュ……キュイ……。」
その小さな、けれど決意に満ちた声は、
ウェーノ村の温かい風に優しく溶けていった。




