第28話 もう一度“世界”へ
“隙間の庭”の最奥――。
かつて深い絶望と孤独に満ちていた空間の裂け目が、今日はまるで心臓の鼓動のように、柔らかく、そして激しく脈打って揺れていた。
リルは、歩みを進めながら腕輪の鈴をぎゅっと握りしめる。
ちりん……。
「……呼んでる。」
裂け目の前に立つと、アインがそっとリルの小さな背中に手を添えた。
「大丈夫よ、リルちゃん。みんないるわ。」
ソーヤも一歩前に出て、空間の歪みをじっと見据える。
「影のリル……昨日の声、まだ聞こえる?」
リルは目を閉じ、自分の内側に意識を向けて小さく頷いた。
「うん……『もっと知りたい』って、ずっと言ってる。」
その瞬間、裂け目の奥から、チカチカとノイズの混じった黒い霧が溢れ出し――。
ゆっくりと、かつて消え去ったはずの“影の少女”の輪郭が形を成した。
『……リル……。』
その声は、以前のようなどこか機械的で虚ろなものではなかった。
震えてはいるものの、確かな感情を帯びた、ずっと“人の声”に近いものだった。
影の少女は、蜃気楼のように揺らぐ身体を必死に保ちながら、リルとウェーノ家の面々を真っ直ぐに見つめる。
『……あったかかった……。きのうの……あれ……。』
リルは一歩踏み出し、胸に手を当てた。
「……あれはね、家族のあたたかさ、だよ。セルティや、みんながくれたもの。」
影の少女は、それを聞いてとても羨ましそうに、でも心から嬉しそうに微笑んだ。
『……もっと……感じたい……。でも……。』
無理に形を保とうとしているせいか、影の身体の端から、砂のようにノイズが崩れ落ち始める。
『……わたし……“存在”じゃないから……。触れられない……温もりが、こぼれ落ちちゃう……。』
「そんなことない!」
リルはたまらず駆け寄り、影の少女の手を取ろうと両手を伸ばした。
しかし――。
リルの指先は、非情にも影の身体をすり抜けて空を切ってしまう。
「……っ!」
触れられないという絶望に、リルの目から涙がこぼれる。
アインがすかさずリルの肩を抱き寄せた。
「大丈夫よ。諦めないで、きっと何か方法はあるわ。」
その時――。
後ろでじっと事態を観察していたソーヤの胸の奥で、強烈な直感が閃いた。
(……待てよ。前にリルが言ってた。『意味を持たせることが本当の創造だ』って。)
ソーヤは、崩れゆく影の少女を真っ直ぐに見つめた。
(影のリルは、ただ物理的な“存在”になりたいだけじゃない。彼女の本当の願いは……『リルと一緒にいたい』、『家族の温もりを感じたい』ということだ。だったら――俺が、その“願い”そのものに『意味』を与えてやればいい!)
ソーヤは迷わず前に進み出ると、右手を影の少女の胸元へと真っ直ぐに突き出した。
「《ジェネレーター》……全開で発動!」
ソーヤの手のひらから、これまでにないほど眩く、そして純度の高い黄金の光が溢れ出し、影の少女の不安定な胸元へと真っ直ぐに吸い込まれていく。
影の少女が、驚いたように大きく目を見開いた。
『……これ……すごく……あったかい……。』
それに呼応するように、リルの腕輪の鈴が共鳴し、強烈な光を放ち始めた。
【ツイン・メモリー:完全共鳴を開始】
リルの身体からも優しい白銀の光が溢れ出し、ソーヤの光と混ざり合って影の少女へと流れ込んでいく。
「……あなたは、“もうひとり”の私。ずっと寂しかった、私の半分。」
リルは涙を流しながら、強く叫んだ。
「だから……これからは、私と一緒に生きよう!」
影の少女の漆黒の瞳が、大きく揺れた。
『……わたし……生きて……いいの……?』
「もちろんよ。」
アインが、すべてを肯定するような優しい笑みで頷く。
「あなたも、リルちゃんの大切な一部なんだから。生きて、一緒に笑っていいのよ。」
影の少女は、顔を覆って震える声で呟いた。
『……ありがとう……!』
二つの光が影の少女を完全に包み込み、空間が極彩色に弾けた。
黒い霧のノイズが完全に晴れ、揺らいでいた輪郭が、確かな質量を持ってこの世界に定着していく。
やがて光が収まった時、そこには――
影ではなく、“ひとりの少女”が立っていた。
髪は夜闇のような深い紫。
瞳は星空のように澄み切った黒。
肌はリルより少しだけ淡い、透き通るような白磁の色。
瓜二つでありながら、確かにリルとは違う“もうひとりの少女”としての姿だった。
「……わたし……本当に……?」
リルが、今度こそ恐る恐るそっと手を伸ばす。
指先が、彼女の頬に触れた。温かい体温が、確かにそこにあった。
「……っ!」
影の少女は、リルの温もりに触れた瞬間、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。
「……あったかい……。」
リルも堪えきれず、彼女を力強く抱きしめた。
「おかえり……!」
「……ただいま……。」
アインは目を潤ませて静かに見守り、トーヤも安堵の息をついて頷く。
ユーヤは感動のあまり大泣きしながら鼻をすすっていた。
「うわぁぁぁん! 影のリル姉ちゃん……見事に復活だぁぁぁ……!」
ソーヤは、自分の手のひらを見つめ、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
(“意味を持つ存在”――それが、彼女をこの世界に繋ぎ止めたんだ。俺の力は、こういうためにあったんだな。)
抱き合っていた二人がゆっくりと離れると、影の少女はリルの手をぎゅっと握りながら言った。
「……わたし、名前が……欲しい……。」
リルは少しだけ考え、涙で濡れた顔に最高の笑顔を咲かせた。
「じゃあ……“ミラ”はどう?」
影の少女――ミラは、その言葉を口の中で転がすように呟き、満面の笑みで頷いた。
「……ミラ……。うん……すごく、好き……。」
こうして、かつて世界から切り離された“影の少女”は、“ミラ”という確かな存在として、リルの隣に帰ってきた。
“隙間の庭”は、かつてないほど美しく清らかな光を放ち、二人の少女の新たな誕生を祝福しているようだった。




