第27話 影の少女
王都観光を満喫した翌朝。
ウェーノ家が滞在する王城の特別客室には、柔らかな朝日がふんだんに差し込んでいた。
昨日の熱狂的な賑わいが嘘のように、鳥のさえずりだけが聞こえる穏やかな朝だった。
しかし、その心地よい静けさを破ったのは――。
『……アイン……。』
風に溶けるような、かすかで震える声だった。
ベッドでまどろんでいたアインは静かに目を開け、胸の奥がふっと締め付けられるような温かさを感じた。
(……リルちゃん?)
その声は、耳から聞こえたのではない。《ネイチャー・リンク》を通じて、“世界の境界”そのものから波紋のように伝わってきたSOSだった。
アインはそっとベッドを抜け出し、窓辺に立つ。王都の空は抜けるように青く澄み渡っている。
「……呼んでるのね。」
アインは優しく微笑み、そっと胸に手を当てた。
◆
一方、その頃の王城の中庭では――。
「兄ちゃん! 早く早く! 今日は王都の裏路地探索に行こうよ!」
「お前なぁ……昨日あれだけ歩き回って、なんでそんなに体力が有り余ってるんだよ……。」
ユーヤはすでに冒険に出る気満々で飛び跳ねており、ソーヤは眠い目を擦りながら苦笑しつつ支度をしていた。
トーヤはテーブルに王都の地図を広げ、真面目な顔で予定を確認している。
「今日は王宮の許可を得て、魔導研究棟を特別に見学させてもらえることになっている。王国の最先端の魔導技術は、今後の我々の生活にも応用できるかもしれないからな。」
と、珍しく父親としての知的好奇心を輝かせていた。
そこへ、部屋着の上にストールを羽織ったアインが静かに戻ってきた。
「みんな〜、お出かけの前に、ちょっといいかしら?」
「母さん、どうしたの?」
アインは少しだけ困ったように、けれどどこか嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「リルちゃんがね……呼んでるみたいなの。」
「リルが?」
ソーヤがピタッと手を止め、眉をひそめる。
「“庭”で何か問題でも起きたのかな……? また空間のゴミが溢れ出したとか?」
「ううん、そういう緊急のSOSっていう感じじゃないの。ただ……“今すぐ来てほしい、お話ししたい”って、心が揺れてるのが伝わってきたの。」
アインのその言葉を聞いて、家族は顔を見合わせた。そして、次の行動を決めるのに一秒もかからなかった。
「じゃあ、予定変更だな。すぐに行こう。」
トーヤが地図を迷わずパタンと閉じる。
「王都観光や見学なんて、あとでいつでもできるしな。」
「うん! リル姉ちゃんが呼んでるなら、そっちが最優先だよ!」
ユーヤも元気よく拳を突き上げた。
アインは、そんな家族の迷いのなさに嬉しそうに微笑んだ。
「みんな、ありがとう。」
◆
王城の裏庭にある、人目のつかない静かな一角。
トーヤが周囲に認識阻害の結界を張り、アインがそっと虚空に手を伸ばすと――。
空間が淡い紫色に光り、静かに“隙間の庭”へと通じるゲートが開いた。
「よし、行くか。」
トーヤを先頭に、家族は迷わずその光の渦へと飛び込んだ。
◆
“隙間の庭”は、いつも以上に静寂に包まれていた。
紫色の空は薄く波打つように揺れ、足元の星屑のような光も、まるで鼓動のように柔らかく、しかし速いテンポで脈打っている。
そして――広場の中央に、リルがぽつんと立っていた。
その表情は、どこか怯えたような、でも期待に胸を膨らませているような、複雑で不安げなものだった。
「リルちゃん!」
アインが駆け寄ると、リルは張り詰めていた糸が切れたようにほっとした顔になり、駆け寄ってアインの胸に飛び込んだ。
「アイン……! 来てくれてありがとう……。」
「どうしたの? 何があったの?」
リルはアインの腕の中で深呼吸をし、胸に手を当てて言った。
「……“庭”がね、また変わり始めてるの。」
「変わる?」
トーヤが一歩前に出て、周囲の揺らぐ景色を見渡す。
リルは小さく頷き、庭の最奥——かつて『影の少女』が消え去った、あの暗い裂け目の方角を指さした。
「昨日……王都でみんなと過ごして……私、改めて“家族”っていう温かいものを知ったでしょ?」
「うん。」
「セルティがお姉ちゃんになってくれて、みんなが一緒に笑ってくれて……。その『すごく嬉しくて、あったかい気持ち』が……“庭”全体に伝わっちゃったみたいなの。」
「えっ、気持ちが庭に?」
ユーヤが不思議そうに首をかしげる。
リルは少し照れたように、頬を赤くして笑った。
「“庭”はね……管理者である私の心と深く繋がってるの。だから……私が嬉しいと、庭も明るく光る。私が寂しいと、庭も冷たく揺れるの。」
アインはそっとリルの冷たい手を両手で包み込んだ。
「昨日、本当にすごく楽しかったものね。」
「……うん。」
だが、リルの表情が再び微かに翳った。
「でもね……その強すぎる“嬉しさ”が、庭の奥に眠っていた“もうひとつの声”を……強く揺り起こしちゃったみたいなの。」
「もうひとつの声……?」
ソーヤが眉を寄せる。
リルは静かに、震える声で頷いた。
「……消えたはずの、“影の私”の残り声。」
その言葉に、家族全員がハッと息を呑んだ。
「影の少女の……?」
「でも、あの子はツイン・メモリーとして、リルの中に溶け込んだはずじゃ……?」
トーヤが問うと、リルはソーヤが作ってくれた腕輪をそっと握りしめた。
ちりん……。
鈴が、呼応するように優しく鳴る。
「完全には消えてなかったの。彼女は“記憶”として、私の中にずっと寄り添って残ってる。でも……私が昨日感じた“あったかい気持ち”が、私の中の記憶を揺らして……。」
リルは、恐怖ではなく、ただひたすらに切なそうな声で続けた。
「“影の私”が……私に、強く話しかけてきたの。」
アインはリルの肩に手を置き、その目を真っ直ぐに見つめた。
「なんて言ってたの?」
リルは小さく呟いた。
「――“もっと知りたい”って。“その家族のあったかさを、わたしももっと感じたい”って。」
家族は静かに息を呑んだ。
リルは涙をぽろぽろとこぼしながら、震える声で訴えた。
「……私だけじゃなくて……“影の私”も……あの孤独な闇の中で、ずっと家族の温もりを求めてるの。だから……お願い。」
リルはアインの手をぎゅっと力強く握った。
「“影の私”にも……会ってあげてほしい。彼女は私自身だから……今度こそ、ちゃんと向き合いたいの。」
アインは、すべてを包み込むような聖母の微笑みを浮かべた。
「もちろんよ、リルちゃん。」
「あなたの大切な“もうひとり”なら、私たちにとっても大切な家族の一部だもの。」
ソーヤも力強く頷く。
「リルが向き合いたいなら、俺たちも一緒に向き合うよ。一人にはしない。」
ユーヤもドンッと自分の胸を叩いた。
「影のリル姉ちゃんも、絶対いい子に決まってるよ! だってリル姉ちゃんの影なんだから!」
トーヤは子どもたちの頼もしい姿を見て静かに笑い、前を向いた。
「よし、行こう。庭の最奥へ。」
リルは涙を浮かべながら、満面の笑みで頷いた。
「……ありがとう!」
そして――
家族が歩みを進めると、庭の奥の重い暗闇が、まるで彼らを招き入れるかのように、ゆっくりと光の道を形作り始めた。
“影の少女”が、再び目を覚まそうとしている。
孤独だった魂を、温かい光で満たすために……。




