番外編 侍女ミーナの受難
アトレイア王宮の朝は、本来であれば厳かで静かなものであった。
少なくとも、あの日の朝の謁見が終わるまでは……。
「ミーナ! 今すぐお出かけの支度をして! 出かけるわよ!」
自室に響き渡ったセレスティア王女のその声を聞いた瞬間、侍女のミーナはすべてを悟った。
(……まただ。またこの発作が始まった。)
「王女様、本日は王室の歴史学の家庭教師がいらっしゃる日で——」
「そんなの適当に理由をつけて後回しにしていいわ! 今は歴史の勉強より“村”よ、“村”!」
(村……?さっき陛下がお話しされていた、異世界人が治めるというあの異常な村のこと……?)
(絶対に、ロクなことにならない……!)
「ミーナ、急いで! もちろんお父様には内緒の“お忍び”よ!」
「“お忍び”と言いながら、なんで王家専用の高速魔導馬車を使うんですか! 目立ちすぎでおかしいです!」
「だって、普通の馬車じゃ時間がかかってもどかしいんだもの!」
(……この方、一国の王女じゃなくて、ただの好奇心で動く“暴走魔導車”だわ。)
こうして、ミーナの終わりの見えない悪夢は幕を開けたのだった。
◆
数時間後、凄まじい速度で村に到着した瞬間、ミーナは絶望と共に確信した。
(……ここ、ダメだ。常識が一つも通用しない。)
森の木が勝手に意志を持って動き、池からは伝承の存在である人魚が顔を出し、銀色の鉄の人が未知の光線で解析をしてくる。
獣人の子どもたちは風の刃のように秒速で走り回り、ドワーフは昼夜問わず爆発のような火花を撒き散らしている。
そして、自分が仕える王女は——
「すごい! かわいい! なにこれ、すっごく楽しい!」
泥はねも気にせず、完全にテンションMAXでカオスの中心へと飛び込んでいった。
(王女様……お願いですから……王族としての自覚を……落ち着いて……!)
ミーナは必死の形相で村中を走り回り、悲鳴を上げ続けた。
「王女様! そのトレントの木は動きます! 踏まれますから危険です!」
「王女様! 池に落ちます! マーメル族が面白がって水底に引っ張ります!」
「王女様! 鉄の人に無闇に触らないでください! 謎の光で骨格まで解析されています!」
「王女様! 獣人の子どもと鬼ごっこしないでください! 彼らの足は速すぎて見えません!勝てません!」
村の住民たちは「王女様も元気だねぇ〜。」と微笑ましく見ていたが、ミーナだけは常に命の危機を感じて必死だった。
(……私の寿命、この数時間で確実に十年は縮んでる。)
◆
なんとか泥だらけの王女を説得し、半泣きで馬車に押し込んで連れ帰ろうとしたその時だった。
ドドドドドドドドッ!!!
王家の獅子の紋章をつけた威圧感たっぷりの馬車が、砂煙を上げて村に突っ込んできた。
(……嘘でしょ。)
扉が乱暴に開き、鬼の形相のレオニス国王が降り立つ。
「セレスティアァァァァァ!!」
(あ、私の人生、終わった。)
ミーナは静かに目を閉じ、処刑を覚悟した。王女の暴走の責任は、監督不届きとしてだいたい筆頭侍女の首に降りかかるのが世の常である。
しかし国王は、怒るどころか愛娘をきつく抱きしめ、深い安堵の表情を見せた。
(よかった……怒ってない……。命は繋がった……。)
——と、安堵したのも束の間。国王の視線が、セレスティアの頭越しに村全体へと向いた。
エルフの家が空中で勝手に動き、
ドワーフの工房が鼓膜を破るような爆音を響かせ、
獣人の子どもが物理法則を無視して木の上を跳び回り、
池からは人魚が魅惑の歌声を響かせ、
鉄の人が無表情で観測塔のレンズを怪しく光らせ、
巨大なトレントの木が森の地形そのものを動かしている。
国王の顔から、すべての血の気が引いて青ざめた。
「………………。」
(陛下……そのお気持ち、痛いほどよくわかります。)
ミーナは王と無言のテレパシーで繋がった気がした。
そして、護衛騎士団はさらに悲惨な状況だった。
「うわあぁぁぁぁ!」
「木が動いたぁぁぁ! 化け物だ!」
「人魚!? なぜこんな内陸の池に!?」
「鉄の人が喋った!? 命乞いをしろ!」
「エルフが空中で家を作ってる!? 重力はどうなっている!?」
(……王国最強と謳われた精鋭騎士団が、ただの村の景色で壊れていく……。)
ミーナは心の中で、誰にともなく泣きながら謝罪した。
◆
その悪夢の一日から、なんとか王都に生還して数日が経った頃。ミーナは毎朝、神に祈っていた。
(どうか……どうか今日は、王女様が静かに歴史の勉強をしてくれますように……。)
しかし。
「ミーナ! 準備して! また村に行くわよ!」
「王女様ぁぁぁぁぁ!! なぜですかぁぁぁ!!」
祈りは天に届かず、すぐに高速魔導馬車が準備され、ミーナは半泣きで乗り込んだ。
村に着くと、王女はまたしても全力で楽しみ始めた。
「アインさ〜ん! また来たわよ〜!」
(……このお方、王族なのに完全に村の常連客として顔パスになってるじゃないですか……。)
ミーナは今日も、寿命を削りながら走り回る。
「王女様! その木は勝手に動きます!」
「王女様! 池に近づかないで!」
「王女様! 鉄の人に触らないで!」
「王女様! 獣人の子どもと競争しないで!」
「王女様ぁぁぁぁぁ!!」
村の住民はみんな優しく温かい。
でも、ミーナの神経はすでに限界を超えていた。
◆
夕暮れ、疲労困憊で揺られる帰りの馬車で。
「今日も最高に楽しかった〜♡」
「……王女様。」
「なぁに?」
「来週も……本当に、行くおつもりですか……?」
「もちろん!」
ミーナは天井を仰ぎ見た。
「……私……もう……限界かもしれません……。辞表を……。」
「ミーナ、大丈夫よ。私、来週はちゃんと気をつけるから、ね?」
「気をつける気がない人の言葉ですそれは!! 絶対に泥だらけになるくせに!!」
馬車の中に、筆頭侍女の魂の悲鳴がむなしく響いた。
◆
そして、絶望の翌週。
「アインさ〜ん! また来たわよ〜!」
「まぁ〜、セレスティアちゃん。いらっしゃい〜。」
ミーナは馬車の横で、完全に魂が抜けた抜け殻のように立っていた。
「……今日も……地獄の鬼ごっこが始まる……。」
そんな彼女の足元に、クロが寄り添うようにすり寄り、心配そうに鳴く。
「キュイ……。」
(ありがとう……クロさん……。この狂った村の中で、あなたのその純粋な優しさだけが、今の私の唯一の救いです……。)
こうして、侍女ミーナの神経をすり減らす受難の日々は、果てしなく続いていくのであった。




