第17話 ”庭の奥”に眠る記憶
”隙間の庭”の奥へと進むほど、空気はひんやりと冷たく、そして静かになっていった。
空を覆う紫色は深海のように暗く沈み、足元を照らす光も心細げに淡く脈打っている。
アインとリルはしっかりと手をつないだまま、ゆっくりと歩みを進める。
「……ここは少し雰囲気が違うわね。息が詰まりそう。」
「私も、こんなに奥まで来たことはないの……。」
リルの声はかすかに震えていた。
長年この庭の管理者として過ごしてきた彼女でさえ、“庭の奥底”へ踏み込むのはこれが初めてなのだ。
やがて、足元の光の道がぷつりと途切れ、その先に——
巨大な“空間の裂け目”がパックリと口を開けていた。
黒い霧がゆらゆらと底知れぬ深淵から湧き出し、まるで世界の裏側がむき出しになったような、不気味で空虚な空間。
アインは思わず息を呑んだ。
「ここは……?」
リルは胸に手を当て、何かに耐えるように苦しそうに呟いた。
「わからない。でも、とても懐かしい……痛いような気がする……。」
「“庭”が生まれた時……ここに“誰か”がいた気がするの。」
「誰か?」
「うん……。私じゃない、“もう一人”。」
その瞬間——
ゴォォォォ……ッ!
地面が激しく震え、裂け目から溢れる黒い霧が竜巻のように渦を巻いた。
アインは咄嗟にリルを庇うように抱き寄せる。
霧の中心から、ノイズ混じりの低い声が響いた。
『……だ…れ……?……そこにいるのは……リ…ル……?』
リルの身体がびくりと跳ねる。
「この声……知ってる……。でも……思い出せない……!」
アインはリルの手を強く握り、凛とした声で前に出た。
「あなたは誰なの? 姿を見せなさい。」
霧がゆっくりと揺れ、やがて人の形を成していく。
現れたのは——
リルと瓜二つの、しかし輪郭を黒いノイズで覆われた影のような少女だった。
髪は夜の闇のように黒く、瞳は深く沈んだ紫色。
輪郭は蜃気楼のように揺らぎ、まるで存在そのものが不安定なまま固まっていないかのようだ。
『……わたしは……リルの……“影”……。』
「影……?」
リルがかすれた声で呟く。『……リルが“名前”をもらった時……わたしは……切り離された……。役目だけが残されて……この冷たい“庭の奥”に閉じ込められた……。』
アインはハッとして事の顛末を理解した。
(リルが名前をもらい“存在”へと昇華した時……元々の“余白としての無機質な役目”だけが、抜け殻のように別の形で残ってしまったのね……?)
リルは震える声で、影の少女に問いかけた。
「あなた……、ずっとこんな暗くて冷たい場所に……?」
『……うん……。あなたが“存在”になったから……わたしは“存在になれなかった部分”。』
影の少女は、嫉妬や恨みではなく、ただ純粋に自分の使命を受け入れていた。……でも、あなたが笑うたび……あなたが誰かと話すたび……わたしは……少しずつ……薄れていった……。』
リルの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「ごめん……。私……ずっとあなたのこと……忘れて……ひとりで笑って……!」
『……いいの。あなたが幸せなら……それで……。』
影の少女は、ノイズにまみれた顔で優しく微笑んだ。
その笑顔の形は、リルと全く同じものだった。
だが、その言葉を紡ぐ端から、影の少女の足元がサラサラと黒い砂のように崩れ始めていた。
「待って! 消えないで!」
リルが叫び、手を伸ばす。
しかし影の少女は静かに首を振った。
『……もう……限界……なの。でも……最後に……お願い……。』
アインが一歩前に出る。
「お願いって、何かしら?」
影の少女は、静かな瞳でアインを真っ直ぐに見つめた。
『……リルを……守って。あの子は……優しすぎるから……この“庭”の痛みを全部……ひとりで抱え込んでしまう……。』
アインは、母親としての絶対的な包容力をもって、力強く頷いた。
「もちろんよ。リルは私の、私たち家族の大切な友達だもの。絶対に泣かせたりしないわ。」
影の少女は、心の底からほっとしたように、憑き物が落ちたような笑顔を見せた。
『……ありがとう……アイン……。あなたの声は……本当に、とてもあたたかい……。』
そして、最後にリルの方へ視線を向けた。
『……リル……。』
「いやだ! 置いていかないで!」
リルは涙を流しながら、影の少女の手を握ろうと駆け寄った。
しかし、その手は虚しく空を切り、影の身体をすり抜けてしまう。
「行かないで……!あなたは……私なのに……!」
『……あなたが生きてるなら……わたしは……もう……いらない……。』
影の少女の身体が、黒いノイズから純白の光へと溶けていく。
『……さよなら……リル……。あなたが……これから先、ずっと幸せで……ありますように……。』
「いや……いやぁぁぁぁぁ……!」
リルの悲痛な叫びが、何もない”庭”の最奥に響き渡った。
アインは泣き崩れるリルをしっかりと抱きしめ、その小さな背中を何度も何度も優しく撫でた。
「大丈夫よ……リルちゃん。あなたはひとりじゃないわ。」
光が完全に天へと昇りきると、あの恐ろしい裂け目は嘘のように静かに閉じていった。
庭の奥には、ただ温かな静寂だけが残った。
リルは涙を拭い、アインの胸に顔を埋めたまま呟く。
「アイン……。私……もう一人の私を……失っちゃった……。」
アインは優しく微笑み、リルの頭を撫でた。
「違うわ。あなたはあの子から、大切な願いを受け取ったの。」
「これからは、あなたが彼女の分まで、二人分いっぱい幸せになればいいのよ。」
リルは涙に濡れた瞳を瞬かせ、小さく、けれどしっかりと頷いた。
「……うん……。」
その瞬間——
空間に漂っていた光の粒子がふわりと舞い上がり、リルの胸の奥へと吸い込まれるように宿った。
『ユニーク権能:リル《ツイン・メモリー》が解放されました。』
——それは、消えゆく“もう一人の自分”の記憶と感情を継ぎ、共に生きるための力だった。
アインはリルの手を優しく握り直した。
「帰りましょう、リルちゃん。みんなが待ってる。あなたの居場所は、もう“ひとりぼっちの庭”じゃないわ。」
リルは涙を拭き、今日一番の笑顔を見せた。
「……うん。アインと一緒に、お家に帰る。」
二人は手をつなぎ、温かな光に包まれた道を戻っていった。
”隙間の庭”の木々が静かに揺れ、まるで“影の少女”がそっと見守りながら微笑んでいるようだった。




