第16話 “庭”が生まれた日
アインが一人で隙間の庭を訪れてから数日後。
いつもなら幻想的な紫色の空が穏やかに広がる“隙間の庭”だが、今日ばかりは様子が違っていた。
空の紫は薄く濁って不安定に揺らぎ、足元を照らす星屑のような光も、どこか弱々しく明滅している。
「リルちゃんに呼ばれてる……。」
そう言って、アインがゲートをくぐって庭に足を踏み入れた瞬間、まるで息を止めていた空間がほっと深呼吸をしたかのように、”庭”全体がふわりと温かい光を取り戻した。
「……アイン。」
少し離れた場所で、リルがぽつんっと立っていた。
両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、まるで迷子になった幼い子どものように、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「今日は……少し、変なの。」
「変って……どうしたの?」
アインが心配して駆け寄ろうとしたその時、リルの身体の輪郭が、ノイズが走ったようにフッと半透明に透けた。
「リルちゃん!?」
「大丈夫……。でもね、思い出しちゃったの。」
リルは胸元をきつく押さえ、痛みを堪えるようにぎゅっと目を閉じた。
「“庭”が生まれた日のこと……。」
アインは迷わず歩み寄り、冷え切ったリルの小さな手を両手でそっと包み込んだ。
「お話し、してくれる?」
その温もりにすがるように、リルは小さくこくりと頷いた。
次の瞬間、リルの周囲に淡い光の粒子が集まり、アインの視界に『過去の景色』が流れ込んでくる。
そして、”庭”の最も古く、深い記憶が静かに開かれた。
——まだ“隙間の庭”が明確な形を持たず、世界と世界の境界が泥水のように不明瞭に揺らいでいた頃の記憶。
「……ここは、どこ?」
果てのない光と闇のマーブル模様の中に、幼いリルが立っていた。
今の彼女よりもさらに透明で、表情すらも曖昧。
ただそこに『在る』だけの蜃気楼のような姿だった。
(この子……生まれたばかりのリルちゃん……?)
アインが息を呑んで見守る中、リルの声が記憶の底から響いてくる。
「私はね……“世界の余白”として生まれたの。」
「余白……?」
「うん。世界同士がぶつかって壊れないように、緩衝材として“境界を埋めるだけの存在”。」
記憶の中の幼いリルは、感情の抜け落ちたうつろな瞳でただ虚空を見つめている。
「本当は、名前も、形も、心も持たないはずだった。ただの『機能』だったから。」
だが、記憶の景色がふわりと暖色に染まった。
「でも……ある日、私は“名前”をもらったの……。」
「誰に?」
リルは少し寂しそうに、けれど愛おしそうに微笑む。
「……今はもう、遠すぎて顔も声も思い出せない。でもね、確かに誰かが私に言ってくれたの。」
『あなたは、リル。この庭を守る子。どうか、ひとりぼっちにならないように。』
その優しい言霊が響いた瞬間、幼いリルの身体に血が通ったかのように“色”が宿り、はっきりとした輪郭が生まれた。うつろだった瞳に光が灯る。
「名前をもらった時……私は初めて“存在”になったの。」
まるで自分のことのように、アインは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「でも……名付けてくれたその人は?」
リルは力なく首を振る。
「わからないの。気がついたら、その人はもういなくて……私と、この“庭”だけが残されてた。」
「……寂しかったね。」
アインがそっとリルの身体を抱きしめると、張り詰めていたリルの身体が小さく震え始めた。
「アイン……。あなたたちがここに来てくれるまで、私はずっと……何百年も、“役目”だけで生きてたの。」
「もう大丈夫よ。あなたはもう、ひとりじゃないわ。」
リルはアインの温かい胸に顔を埋め、子どものようにしゃくりあげた。
ひとしきり泣いて落ち着いた後、リルは涙を拭いながらアインを見上げた。
「ねぇ、アイン。どうして“庭”がこんなにあなたを歓迎するか、わかる?」
「え……?」
「あなたはね、私に名前を与えてくれた人と同じ“気配”を持ってるの。」
アインは目を瞬かせた。
「私が……?」
「うん。あなたは、決して”世界をひとりにしない”。」
リルの大きな瞳が、アインを真っ直ぐに見つめる。
「植物も、動物も、精霊も……世界の端っこにいる迷子たちでさえ、みんなあなたとお話しすると安心するの。あなたが世界を愛しているのがわかるから。」
アインはふふっと照れたように笑い、リルの頬を優しく撫でた。
「そんな大層なものじゃないわよ〜。私はただ、みんなと楽しくお話ししたいだけなの。お節介なお母さんなだけよ。」
「それがね……この“庭”にとっては特別なの。」
リルはアインの手を両手でぎゅっと握りしめた。
「だから……お願い。」
「なぁに?」
「私が……もしまた“世界に溶けて、消えそう”になったら——」
リルは震える声で、必死にすがるように続けた。
「名前を……呼んでほしい。私を、ここに繋ぎ止めて。」
アインは躊躇することなく、力強く頷いた。
「もちろんよ。何度でも、大声で呼んであげるわ。あなたはリル。私の……私たちの大切なお友達なんだから。」
リルの目に再びぽろぽろと涙が溢れ、それに呼応するように”庭”全体が優しく、暖かな光に包まれた。
その時だった。
ズズン……ッ。
庭のずっと奥深くから、重く低い地鳴りのような振動が響いた。
「……え?」
リルがハッとして振り返る。
「アイン……。“庭”が……もうひとつ、深い記憶を開こうとしてる。」
「もうひとつの記憶?」
リルは不安そうにアインの後ろに隠れ、その服の裾を握った。
「わからない……。でも、行かなきゃいけない気がする……。」
アインは静かに頷き、リルの手をしっかりと引き直した。
「じゃあ、一緒に行きましょう。何があっても、私がついているわ。」
リルは小さく微笑み、「うん……ありがとう、アイン。」と頷いた。
二人は手をつなぎ、今まで誰も踏み入れたことのない庭の最奥へと歩き出した。
光が揺れ、世界の境界が静かに開いていく。
——その先にあるのは、リルの“本当の正体”に繋がる、隠された記憶だった。




