第9話 もう一つの“世界”
心地よい暖かな日差しが降り注ぐ、ある日の午後。
ウェーノ家一同は、いつものようにどこまでも広がる壮大な畑の様子を、みんなで並んで眺めていた。
「なぁ、アイン。改めてこうして遠くを見て思うんだが……この畑、いくらなんでも広がりすぎじゃないか?」
トーヤが水平線の彼方まで続いている緑豊かな地平線を見つめながら、冷や汗混じりに呟いた。
「うん? でも、お野菜がいっぱい採れて便利だから、別にいいじゃない〜。」
アインはいつも通り、全く問題にしていない様子でマイペースに美味しそうに採れたてのトマトを食べている。
「いや、便利云々の前に、物理的な空間の法則がおかしくなっている気がするんだよ。ソーヤ、お前はどう思う?」
トーヤの深刻な問いかけに、職人としての空間認識能力が高いソーヤも、難しい顔をして深く頷いた。
「実は僕も気になってたんだ。昨日、ドワーフの機械の設置範囲を測ったときより、明らかに今日も敷地が数メートル単位で『増えてる』気がするんだよね……。」
「ええっ!? それってつまり、畑が勝手に……成長して増殖してるってこと!?」
ユーヤが呆気にとられてポカンと口を開けた、まさにその瞬間だった。
――ぐにゃり。
突然、畑の真ん中の、何もない一角の空間が、水面に石を投じたかのように大きく歪んだ。
「……え、今、空間が歪んだの、見た?」
ソーヤが目を見開く。
「見た。」とトーヤ。
「見たわ〜♪」とアイン。
全員が同時にその異常現象に反応した。
次の瞬間、歪みがおさまった場所に、ぽつん、とそこには周囲に何もないのに、漆黒の光を放つゲートのような不可思議な扉がポッカリと出現したのだ。
「……何だこれ。空間の裂け目か?」
「RPGの隠しダンジョンの入口みたい! すげえぇ!」
トーヤが警戒し、「危ないから、まずは俺が一人で調査を――」と言いかけたその声を遮るように、
「「行く!!」」
と、ソーヤとユーヤの兄弟が、お約束とばかりに凄まじい好奇心で身を乗り出した。
いつもの大暴走の流れである。
それを見たアインも、楽しそうに両手を叩いてにっこりと微笑む。
「あら楽しそうね。お父さん。やっぱり家族は、みんな一緒に行くのが一番いいわよね♪」
「……はぁ。はいはい、分かりましたよ。その代わり、絶対に俺の側を離れるなよ?」
完全に観念したトーヤは、大きな溜め息をつきながらも、愛する家族を守るためにいつでもスキルを発動できるよう警戒しながら、全員でその謎のゲートへと足を踏み入れた。
◆
現れたゲートの光をくぐり抜けると、そこには、現実の世界とは明らかに異なる、息を呑むような幻想的な風景が広がっていた。
見上げる空は、太陽がないのにもかかわらず、淡い幻想的な紫色に染まっている。
心地よい微風がゆっくりと流れ、足元の地面は、まるで星屑を散りばめたかのように柔らかく乳白色に光り輝いていた。
太陽の光はないものの、地面そのものが発光しているおかげで、それなりに明るく、遠くまで見渡すことができる。
「……何だここは。異世界の中に存在する、さらに別の異世界……か?」
そのあまりに非現実的な光景を周囲に見回しながら、トーヤが感心したように呟く。
「うわー! これ絶対にゲームのクリア後に行ける『隠し裏マップ』だよ! テンション上がる!」
ユーヤが目を輝かせてはしゃぎ、全員がキョロキョロと周囲を探索し始めた、その時だった。
「……こんにちは。」
背後から、鈴の音を転がしたような、静かでどこか儚げな少女の声が響いた。
ハッとして全員が振り返ると、そこには一人の少女がぽつんと立っていた。
彼女は透き通るような美しい純白の髪を持ち、その身体はまるで陽炎のように少しだけ向こう側が透けて見える、どこか“存在そのものが薄い”ような不思議な雰囲気を纏っていた。
少女はウェーノ一家を大きな瞳で見つめ、信じられないといった様子で小さく呟いた。
「あなたたち……本当に人間? どうやって、この場所に入って来られたの……?」
「ここ、って一体どこなんだい? 君は誰?」
トーヤが家族を背に庇いながら、警戒を解かずに優しく問いかける。
「私はリル。そして、ここは“隙間の庭”。あらゆる世界と世界のあいだにある、本来なら誰も知ることのない、存在しないはずの場所……。本当は、外の世界の住人は誰も来られないはずなのだけれど……。」
リルは少し寂しそうに目を伏せた。
「でも最近、なぜかこの場所の境界線が押し広げられていて……。まるで、どこかの世界から流れ込んでくる、もの凄く強大で異常な魔力の影響を受けて、現実の世界と混ざり合おうとしているみたい。きっと、誰かが外の世界で、とんでもないことをしているのね……。」
その言葉を聴いた瞬間、ウェーノ一家は全員、無言のままスーッと綺麗に視線を右斜め上へとそらした。
犯人に、あまりにも心当たりがありすぎるからである。
(……うん、100%うちのせいだな……。)
トーヤの心の声が、無言の空気を通じて伝わったのか、少女はジト目で一家を見つめ直した。
「あなたたち、何かした……?」
その問いに、ソーヤが指を折り数えながら、冷や汗を流しながら、冷静に説明を始めた。
「ええっとね、ちょっと規格外の畑を作って、ゲームのスキルで色々召喚して、創作スキルで道具を作って、ドワーフたちと完全自動化を進めて、エルフや人魚やロボットが集まり始めて……]
「……って、説明してて思ったけど、これ絶対に僕たちが世界のバランスを壊しかけてる犯人じゃない!?」
そのソーヤのあまりに的確なツッコミを見て、白い髪の少女リルは、クスッと小さく、本当に楽しそうに声を上げて笑った。
「ふふ、あはは! 面白い人たち。……でも、その楽しそうな暴走のせいで、この“隙間の庭”が少しずつ“現実に近づいてしまっている”のは本当よ。このままだと――」
一瞬だけ、リルの表情が真剣なものになり、周囲の空気がピリリと静まる。
「いろんな世界の境界線が混ざり合って、お互いの世界が大変なことになるかもしれないわ。」
「それは……俺たちの世界の人間にとっても、危険なことなのか?」
トーヤが真剣な表情で聞き返す。
「……場合によるわ。でも、あなたたちを見ていたら、そんな心配は必要ない気がしてきた。」
「なんでだ?」
リルは真っ直ぐにトーヤの目を見つめた。
「だって、普通の世界の住人がこんな未知の領域に来たら、恐怖で暴れるか、貴重な資源を奪おうとしてここを壊し始めるはずなのに……あなたたちは、さっきから、
『わぁ、景色がとっても綺麗ね〜。』とか『ここに新しくお家を建てて住めるのかなぁ?』とか『この地面、どうして光ってるんだろう? ソーヤ、解析できる?』って、のん気な会話しかしていなかったから……。」
そんなウェーノ家の底抜けた無害さと温かさに触れて安心したのか、少女は小さな足を一歩前に踏み出し、上目遣いでトーヤを見上げた。
「……お願いがあるの。私と一緒に、この“隙間の庭”を守るのを、手伝ってくれない?」
「守る?」
「うん。世界の歪みから生まれる、変なものがここに流れ込んで、暴れないように――」
リルがそう言いかけた、まさにその瞬間だった。
ざわっ……と、美しい紫色の空間が不気味に大きく揺れ動き、遥か遠方の光る地面から、ドロドロとした巨大な『黒い影の怪物』が這い出てきたのだ。
リルが怯え、顔を青くしてその影を指差す。
「……出た。あれが、世界のバランスが急激に崩れた時に湧き出てくる不純物――“ズレた存在”。あれは周りの世界の秩序を乱して食い荒らしていくの。このまま放置すれば、この庭も、あなたたちの世界も、ただでは済まないわ……!」
「なるほど、あれが世界のバグってやつか。放置はできないな。」
それを聞いたトーヤは、全く慌てる様子もなく、ただ散歩の途中で足元の小石を退けるかのような気軽さで、一歩前に出た。
そして、黒い怪物に向けて、軽く人差し指を向けた。
「《ホーリー・レイ》。」
パアァァァァァ!!!
次の瞬間、遥か彼方にいたはずの巨大な黒い影の怪物は、咆哮を上げる暇すら与えられず、頭上から振り注ぐ光の柱に焼かれて、跡形もなく消え去った。
「はっ? ……え?」
目の前で起きた神話レベルの現象を前に、リルは、完全に開いた口が塞がらないまま硬直した。
「ここに現れた時から、只者じゃないとは思っていたけれど……やっぱりあなたたち、信じられないくらい凄いのね……。」
「いや、これくらいは俺にとっては大したことじゃないさ。それよりも、その”ズレた存在”とやらが、今後二度と現れないように根本的な解決をするには、どうしたらいいんだ?」
「……世界のバランスをこれ以上乱さないこと。この“隙間の庭”が、これ以上広がらず、“そのままであり続ける”ことよ。」
「そういうことなら、話は早い。」
リルの解説を聞き、トーヤはポンと手を叩いて提案した。
「これからは俺たちも、世界のバランスを保つために全力で協力するよ。まぁ、原因を作ったのが俺たちの農場の拡大にあるなら、責任もあるしね。これからは、俺たちの世界を無理に広げないように注意する。……というわけで、畑の拡大も今日からはほどほどにするぞ。」
トーヤがそう言って後ろを振り返ると、案の定、息子たちが横から猛烈にブーイングを始めた。
「えーっ!? 父さん、そりゃないよ! まだ試してみたいゲームの召喚獣がいっぱいいるのに!」
「そうだよ、父さん。ダグルスさんたちとの完全自動化のプロジェクトも、まだ中間報告が終わったばかりなのに……。」
「まったくダメとは言ってないだろう。」
トーヤは困ったように笑いながら、二人の頭を優しく撫でながら諭した。
「世界のバランスを保てる範囲内で、お行儀よく、控えめに楽しもうって言ってるんだ。リルちゃんを困らせちゃダメだろう?」
父親にそう優しく諭され、ソーヤとユーヤも「はーい……。」としぶしぶ納得の表情を浮かべた。
(……本当に、大丈夫なの?この人たち……。ズレた存在より暴走しそうなんだけど……。)
その賑やかな家族のやり取りを見て、リルは少しだけ不安そうに首を傾げた。
するとトーヤは、はにかむような優しい笑みを浮かべてリルを見つめた。
「大丈夫だよ。この家族はね、たまに楽しくて暴走しちゃうけど……お互いを大切に想い合っているから、最後はちゃんと、お互いを止めて“戻ってくる”ことができるんだ。」
リルはその言葉を聴き、しばらくの間トーヤの温かい目を見つめていたが、やがて、その胸の奥の氷が溶けたかのように、小さく、けれど嬉しそうにコックリと頷いた。
「……うん。それじゃあ、これからよろしくお願いします。」
その後、永劫の孤独な時間の中でずっと一人でこの庭の管理人を務めてきた寂しい少女リルと、世界のバランスの維持についてあれこれと賑やかに話し合った。
「ずっとこんな場所で一人きりだったなんて、絶対に寂しかったよね……。」
ユーヤがボソッと同情するように呟く。
「なぁ、リル姉ちゃん。ただ遊びに来るくらいなら、世界のバランスは崩れないよね?」
「え? ええ……それくらいなら、空間への負荷はないから大丈夫だと思うけれど……。」
「よし! じゃあ、これからは僕とお兄ちゃんで、定期的にリル姉ちゃんのところに遊びに来るね♪」
「ありがとう……っ!」
ユーヤのその純粋で温かい申し出に、リルの透き通るような表情が、パッと花が咲いたかのように明るくなったのは、決して気のせいではなかった。
気がつけば庭にやってきてから数時間が経過しており、子供たちお腹の虫の音が響いたため、今日のところは家に帰ることにした。リルに温かい別れの挨拶をして、一家はゲートを後にする。
(……また、絶対にきてね。)
リルがみんなの背中に向けて、これまでにないほど愛おしそうな微笑みを浮かべて手を振っていた。
◆
ゲートを抜けて外に出ると、そこには見慣れた我が家ののどかな畑の光景が広がっていた。
一家の体感では、確かにあの異世界で数時間は話し合っていたはずなのだが、驚いたことに、こちらの現実世界ではまるで全く時間が経過していないかのように、まだお昼過ぎの明るい太陽が中天に輝いていた。
「……なぁ、本当に夢じゃないよな? 狐につままれた気分だ。」
トーヤが自分の手を眺める。
「うん、間違いないよ父さん。ゲームでいうところの、特定の条件を満たすと畑の端から進入できる『非公式裏フィールド』だよ!」
「これ絶対に今後のストーリー進行に関わる重要隠しエリアだって! リル姉ちゃんも可愛いし!」
子どもたちがそれぞれ独自のゲーマー視点で興奮気味に感想を口にしている。
決して夢幻の類ではなかったのだ。
(……よし。みんなのためにも、あの子のためにも、ちゃんと世界のバランスを考えてスローライフを送らないとな。)
一家の頼れる大黒柱として、トーヤは一人、心の中で静かに、けれど強く決意を固めるのであった。




