第99話 雪夜の葛藤
練習が終わったあとも、グラウンドには夕方の空気が残っていた。
高橋雪夜は、部室に一人残っていた。
机の上には、練習メニューのノートが開かれている。
だが、視線は文字を追っていなかった。
頭の中を巡っているのは、昨夜の声だった。
――東鶴間には、行きません。
六条遊人がいるから。
その言葉が、何度もよみがえる。
「……」
自分でも、どうしてこんなに引っかかるのか分からなかった。
六本遊希が野球を嫌いになったわけではない。
それが分かっただけでも、嬉しかったはずなのに。
うちに来ない、と言われた瞬間。
胸の奥が、静かに痛んだ。
「……雪夜」
気づけば、高柳龍二郎が部室の入り口に立っていた。
「……おい、雪夜」
「あっ……ごめん。気づかなかった」
高柳は、ゆっくりと近づいてきた。
「お前……心ここにあらずだな」
少しだけ目を細める。
「なにかあったのか」
雪夜は、一瞬だけ迷った。
どこまで話していいのか、分からなかった。
だが――黙っているのも、不自然だった。
「……うん。六本遊希のことなんだ」
高柳は、わずかに頷いた。
「……会ったのか?」
「会ってない。電話がきたんだ」
「そうか……」
短い返事だった。
雪夜は、続けた。
「……高校に入学したら、野球部には入るらしい」
「それは……よかったな」
「……でも、うちには来ないって言った」
高柳は、少しだけ視線を落とした。
「それは……残念だな」
雪夜は、小さく笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「僕は……」
言葉が、詰まる。
「遊希が、野球を好きなままだったのが、嬉しかったんだ」
それは、本心だった。
「でも……うちに入らないって言われた時、悲しかった」
ぽつり、と落ちるような声だった。
「うちに来てほしかった。でも……野球が好きなら、それだけでいいとも思ってる」
胸の奥が、絡まる。
「だから、分からなくなったんだ……どうしたらよかったのかって」
言い終えたとき。
視界が、にじんでいることに気づいた。
涙が、一筋だけ頬を伝っていた。
高柳は、何も驚かなかった。
「……そうか」
それだけだった。
だが、その一言は、軽くなかった。
雪夜は、続けた。
「僕は……遊希が苦しんでた時、何もしてなかった」
視線を落とす。
「僕も、野球をやめてたからさ」
あの時間。
自分のことで精一杯だった。
「だから……うちに来てくれって、強く言えなかった」
高柳は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……しょうがないだろう」
雪夜が顔を上げる。
「お前も、俺も。野球をやめてた時期があった」
その事実を、否定することは出来ない。
「それは、真実だ」
部室の空気が、少しだけ落ち着く。
「六本が選んだ道だろう。仕方ないさ」
雪夜は、ゆっくりとうなずいた。
「……ごめん。こんな話をして」
「いいさ」
高柳は、肩をすくめた。
「一人で抱え込むよりは、マシだろう」
その言葉に、少しだけ救われる。
「……龍二郎」
名前を呼ぶと、高柳はわずかに目を細めた。
「考えても仕方ないなら、今日はここまでにしておけ」
静かな声。
「みんなが心配するかもしれないからな」
雪夜は、息を吐いた。
「……分かった。今日は、考えるのやめるよ」
完全に割り切れたわけではない。
だが、今はそれでいいと思った。
高柳が、小さく笑う。
「そうだぞ、作戦参謀」
雪夜も、わずかに笑った。
「……そろそろ帰ろうか」
「そうだな。遅くなると、親が心配する」
二人は部室を出た。
校舎の外には、夜の空気が広がっていた。
それぞれの帰路へ、歩き出す。
胸の奥に、まだ小さな痛みは残っている。
だが――
それでも、明日もまた、グラウンドに立つのだと思った。




