第98話 六本遊希との電話
野球部の練習が終わり、夜が訪れていた。
高橋雪夜は、自室のベッドに腰掛けていた。
部屋の中は静かで、時計の針の音だけが、小さく響いている。
昼間のことを、思い出していた。
浮田総二。白石広志。竹田栄司。
そして――六本遊希。
高柳龍二郎の言葉も、頭の中に残っていた。
「これは、本人の心の問題なんだ」
会いに行くべきではない。
その言葉は、正しいのだと思った。
だが――それでも。
放っておくことは、出来なかった。
会うのではなくてもいい。
ただ――声が聞きたかった。
遊希が、今、どこに立っているのかを。
雪夜は、携帯電話を手に取った。
画面には、何も映っていない。
番号は、知っている。
かけることも、出来る。
だが――指は、動かなかった。
その時だった。
携帯電話が、震えた。
突然の振動に、雪夜の心臓が強く跳ねた。
画面を見る。
そこに表示されていた名前を見て――
雪夜は、息を止めた。
六本遊希。
一瞬、現実とは思えなかった。
だが、震えは続いている。
雪夜は、すぐに通話ボタンを押した。
「……もしもし」
自分の声が、わずかに震えているのが分かった。
しばらくの沈黙。
やがて。
「……もしもし……雪夜さん」
聞き慣れた声だった。
だが、どこか――遠く感じた。
「……遊希……」
その名前を口にした瞬間、言葉が続かなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
遊希が、静かに言った。
「……総二と、広志と、栄司が……今日、雪夜さんと会いましたよね」
「ああ……来てくれたよ」
短く、答えた。
遊希は、少しだけ間を置いて言った。
「……あの時……途中まで……僕も、来ていたんですよ」
雪夜の呼吸が止まった。
「……えっ……」
言葉が、それ以上出てこなかった。
来ていた。
すぐ近くまで。
それなのに――会わなかった。
なぜなのか。
その答えを、雪夜はまだ知らなかった。
「……今日……雪夜さんに、会いたかったです」
遊希の声は、静かだった。
「でも……東鶴間の練習を見て……決断しました」
雪夜は、息を呑んだ。
「……なにをだい」
沈黙。
そして――
「……東鶴間には、行きません」
その言葉は、はっきりしていた。
「……どうしてなんだ」
思わず、問いかけていた。
遊希は、静かに答えた。
「……理由なら……雪夜さんも、知っているでしょう」
「理由って……野球をやめたことか」
「それは……建前です」
その言葉に、雪夜の胸が締め付けられた。
「本当の理由は……雪夜さんも、分かると思いますよ」
「……分からないよ……」
正直に、答えた。
遊希は、少しだけ息を吐いた。
「……本当に、分からないのですか?」
「分からないよ」
沈黙が流れた。
やがて。
遊希が言った。
「……ショートに……六条遊人さんが、いますよね」
雪夜の手が、わずかに強く携帯を握った。
「……それが、理由です」
「六条が……どうしてなんだ」
遊希の声は、静かだった。
「……雪夜さんなら」
そして――
「僕と六条さん……どちらを使いますか」
雪夜は、迷わなかった。
「遊希だ」
即答だった。
「ありがとうございます」
遊希の声は、少しだけ柔らいだ。
「でも……他の人は……足が速くて、肩が強くて……守備も上手い六条さんを、使うと思います」
「そんなことない」
雪夜は、強く言った。
「遊希は、打てるショートだろう」
あの守備を、知っている。
あの動きを、知っている。
「競争もさせないで、そんなこと――」
その時だった。
遊希が、静かに言った。
「競争する前に……僕の居場所は、なくなりました」
雪夜は、言葉を失った。
何も言えなかった。
遊希は、続けた。
「だから……雪夜さんだけには、本当のことを言っておきたかったんです」
そして――
「僕は……城南ヶ丘高校に行きます」
その名前を聞いた瞬間。
雪夜の胸の奥に、忘れていた痛みが蘇った。
城南ヶ丘高校。
そこには――桐原礼里がいる。
かつての幼馴染。
そして、雪夜の前から姿を消した人間。
「桐原さんから……誘われたんですよ」
遊希が言った。
「東鶴間に行っても……同じことになるなら……うちに来ないかって」
雪夜は、目を閉じた。
「……どうして……城南なんだ」
遊希は、はっきりと言った。
「……証明するためです」
一瞬の沈黙。
「紅森より……僕が上だと」
そして。
「六条さんより……僕が上だと」
その声に、迷いはなかった。
逃げではなかった。
決意だった。
「だから……雪夜さんと同じ学校には……行けません……」
声が、少しだけ震えた。
「すいません……雪夜さん……」
そして。
通話は、切れた。
「……遊希……」
雪夜は、呟いた。
携帯電話の画面には、もう何も映っていなかった。
かけ直すことは――出来なかった。
ただ。
暗い画面を、見つめ続けていた。




