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第97話 龍二郎と雪夜

 六本遊希の現実を知った後も――


 高橋雪夜の心は、そこから離れることが出来なかった。


 グラウンドに立っていても、集中できなかった。

 ボールの軌道を追っていても、その先に、遊希の姿が重なって見えた。


 あの遊希が、野球を辞めた。


 その事実が、何度も胸の奥を締め付けた。


 どうすればいいのか。


 会いに行くべきなのか。

 それとも――何もしない方がいいのか。


 答えは、出なかった。


「……どうした」


 不意に、声がした。


 振り返ると、高柳龍二郎が立っていた。


 いつものように、静かな目をしていた。


 雪夜は、一瞬だけ迷った。


 だが――隠せないと思った。


 高柳は、すでに見抜いていた。


「……実は」


 雪夜は、ゆっくりと口を開いた。


「中学時代の後輩のことなんだ……」


 それだけで、高柳は何も言わずに聞いていた。


 雪夜は、遊希のことを話した。


 監督のこと。

 退部のこと。

 そして――野球を辞めたこと。


 話し終えた後、沈黙が流れた。


 やがて、高柳が言った。


「……状況は分かった」


 その声は、静かだった。


「だが」


 一度、言葉を切る。


「会いに行くのは、やめておけ」


 雪夜は、驚いた。


「……どうして」


 思わず、聞き返していた。


 高柳は、遠くを見るように言った。


「これは……本人の心の問題なんだ」


 その言葉には、重みがあった。


「他人が、とやかく言うと……ますます苦しめることになる」


 そして――


「……俺も、そうだったから」


 雪夜は、息を呑んだ。


 高柳の右肩。


 かつて事件に巻き込まれ、負傷したその肩。


 野球を続けることすら危うくなった、あの日々。


 高柳は、静かに続けた。


「俺を、冷たい人間だと思うかもしれない」


 だが、その表情は変わらなかった。


「……時間が解決することもある」


 風が、二人の間を通り抜けていく。


「あとは――本人しだいなんだ」


 雪夜は、何も言えなかった。


 自分も、かつて野球を辞めていた。


 誰にも何も言われたくなかった、あの時間。


 ただ、距離を置きたかった。


 それを――思い出していた。


「……しっかりしろよ」


 高柳が、言った。


「作戦参謀」


 その呼び名は、いつものものだった。


 だが――


「そんなことじゃ、みんなが不安になる」


 その言葉は、仲間としてのものだった。


 雪夜は、顔を上げた。


 そして――


「……ありがとう、龍二郎……」


 自然と、名前が出ていた。


 自分でも、驚いていた。


 だが――それは、偽りのない気持ちだった。


 高柳は、一瞬だけ目を見開いた。


 そして、すぐにいつもの表情に戻った。


「……それはそうと」


 少しだけ、口元を緩める。


「お前、後輩に慕われていたんだな」


 雪夜は、小さく笑った。


「まあ……よくアドバイスを求められていたかな」


 それは、誇るようなことではなかった。


 ただ――そうだっただけだ。


「そうか」


 高柳は、静かに言った。


「……いい先輩だったんだな」


 その言葉は、真っ直ぐだった。


 その時だった。


 部室の扉が開いた。


「なになに、なんの話?」


 新井元気が、顔を出した。


 高柳が答えた。


「なに……雪夜が、後輩に好かれているって話だ」


 元気は、すぐに笑った。


「確かに、雪夜は後輩に慕われていたよなぁ」


 雪夜は、肩をすくめた。


「元気は、いつも唯とばかり練習してたから、好かれないんだよ」


 元気が、苦笑した。


「それは……否定できないな」


 三人の間に、小さな笑いが生まれた。


 その空気は、どこか温かかった。


 暗い話ばかりだった一日の終わりに。


 雪夜は、隣に立つ高柳を見た。


 龍二郎。


 その名前を、心の中で繰り返した。


 頼もしい――そう思った。


 この日。


 高橋雪夜と、高柳龍二郎は。


 本当の意味で――仲間になった。

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