第91話 東鶴間の問題
東鶴間高校野球部は、その日も、いつもと変わらず練習をしていた。
白球を追う音。
金属バットがボールを弾く乾いた音。
グラウンドに響く掛け声。
それらは、敗北の後であっても変わらなかった。
県大会が終わり、三年生が去った今も、野球はそこにあった。
練習を終えた部員たちは、いつものように部室へと戻った。
やがて、扉が開いた。
監督の九条咲が入ってきた。
「みんな、揃っているな」
その声に、部室の空気がわずかに引き締まる。
部員たちは自然と姿勢を正し、監督の言葉を待った。
咲は、全員の顔をゆっくりと見渡した。
そして、静かに言った。
「みんな……分かっていると思うが、うちの野球部には、一つ問題がある」
部員たちは互いに顔を見合わせた。
しかし、誰も口を開かなかった。
問題――そう言われても、何を指しているのか分からなかった。
咲は、小さく息を吐いた。
「お前たち……自分たちの人数を数えてみろ」
その言葉に、キャプテンの進藤竜也が、立ち上がることもなく、周囲を見渡した。
「……一、二、三、四、五、六、七、八、九」
そして、答えた。
「九人いますよ、監督」
それは、野球をするには十分な人数だった。
進藤自身も、何が問題なのか分からなかった。
だが、咲の表情は変わらなかった。
「おい。本当に分からないのか」
低い声だった。
部室の空気が、わずかに重くなる。
誰も、答えられなかった。
咲は、みんなを見た。
「……夏目を入れないで、もう一度数えてみろ」
その一言で、部室の空気が凍りついた。
進藤は、ゆっくりと視線を動かした。
マネージャーの夏目真衣を、数から外す。
そして、もう一度数えた。
「……一、二、三、四、五、六、七、八……」
そこで、止まった。
それ以上、数えることが出来なかった。
進藤は顔を上げた。
ようやく――理解した。
咲が、静かに言った。
「分かったか」
誰も、何も言わなかった。
「うちは今、男子部員が八人しかいない」
その言葉は、部室の中に、ゆっくりと沈んでいった。
八人。
たった八人。
野球は――九人いなければ、出来ない。
試合にすら、出られない。
その当たり前の現実を、今になって初めて突きつけられたようだった。
咲は続けた。
「……来年、入部希望者が来ればいい」
一瞬、言葉を切る。
「だが、来なかった時のことも、想定しておいてくれ」
それだけ言うと、咲は部室を出ていった。
扉が閉まる音が、小さく響いた。
しばらくの間、誰も動かなかった。
やがて、部員たちはそれぞれ、無言のまま個別練習へと戻っていった。
だが――その日の練習は、誰も集中できていなかった。
その後。
高柳龍二郎と天宮真十郎を除いた七人が、再び部室に集まっていた。
進藤が口を開いた。
「……というわけで、みんなで話し合うことになったが」
誰の顔も見ずに、言葉を続ける。
「誰か、案はないだろうか」
返事はなかった。
沈黙だけが、そこにあった。
誰もが、考えていた。
だが、答えは見つからなかった。
このままでは、野球部は試合すら出来なくなる。
それはつまり――終わりを意味していた。
その時だった。
「……でしたら」
小さな声が、沈黙を破った。
全員の視線が、一人の少女へと向いた。
夏目真衣だった。
「みなさんの中学時代の後輩を……勧誘すればいいのではないでしょうか」
その言葉は、決して強いものではなかった。
だが、確かに、そこにあった。
進藤は、すぐには答えなかった。
視線を落とし、考えていた。
それが簡単なことではないと、分かっていたからだ。
だが――
他に、方法はなかった。
「……まあ」
進藤は、ゆっくりと顔を上げた。
「それしかないか」
誰も、反対しなかった。
それが、唯一の道だった。
こうして。
進藤竜也。
六条遊人。
高橋雪夜。
新井元気。
田中三郎。
中山太郎。
そして、夏目真衣。
七人は、それぞれの中学時代の後輩を勧誘することになった。
なお、高柳龍二郎と天宮真十郎は、この話し合いには加わらなかった。
高柳は、中学時代、不良に襲われた事件をきっかけに野球部を退部している。
天宮もまた、中学時代のチームメイトと喧嘩別れをしていた。
二人にとって、「後輩を勧誘する」という選択肢は、存在しなかった。
だからこそ――
残された七人が、動くしかなかった。
東鶴間高校野球部を、終わらせないために。




