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第89話 九条咲の悩み

 東鶴間高校のグラウンドに、白球の音が静かに響いていた。


 昼間は生徒たちの声で賑わうその場所も、夜になるとひっそりと静まり返る。


 その夜。


 九条咲は、自室のベッドに腰を下ろしていた。


 部活を終え、夕食を終え、

 静まり返った時間。


 手には、スマートフォン。


 画面には――

 「九条神楽」の名前が表示されていた。


 少しだけ迷う。


 だが、咲は通話ボタンを押した。


 数回の呼び出し音の後、


『あら、珍しいじゃない。咲ちゃんからかけてくるなんて』


 いつも通りの、落ち着いた声。


 咲は、小さく息を吐いた。


「……姉さん……ちょっと、いいかな」


『ええ、もちろんよぉ』


 咲は、少しだけ間を置いた。


 そして――


「姉さん……私に足りないものって、なんだろう」


 沈黙。


 神楽は、すぐには答えなかった。


 だが、


『そうねぇ……』


 優しく、言葉を選ぶように言った。


『咲ちゃんが最初、やる気がなかったからかもしれないわねぇ』


「うっ……」


 咲は、言葉を詰まらせた。


 否定できなかった。


 何も言えなかった。


『でも、それだけじゃないわ』


 神楽は続けた。


『私はね……教え子に恵まれたもの』


『だから、ほとんど何もしなくても、あの子たちは強くなった』


 斉藤秀一。


 そして――


 桜桜花の選手たち。


 咲は、小さく言った。


「それを言うなら……私だって、教え子に恵まれているよ」


『あら』


 神楽は、少し楽しそうに言った。


『あの子のことかしら』


『高橋雪夜君』


 咲は、少しだけ驚いた。


「……うん」


 そして、静かに言った。


「彼のおかげで……私は、本気になれた」


「彼がいなかったら……今の私は、いないと思う」


 その言葉には、嘘はなかった。


 神楽は、少しだけ間を置いて――


『もしかして、咲ちゃん……』


 少しだけ、からかうように言った。


『雪夜君のこと、気になっているのかしら』


「なんでそうなるの!」


 思わず、声が大きくなる。


『だってぇ』


 神楽は、楽しそうに笑った。


『私も、秀一君がモテモテなところを見て、ヤキモチやいてたもの』


「ちょ……姉さん!」


「生徒に手を出しちゃ駄目だよ!」


『出さないわよぉ〜』


 神楽は、少しだけ間を置いて言った。


『今わね』


「今わって……」


 呆れたように言う咲。


 だが、神楽の声は、すぐに優しいものに戻った。


『まあ、それは置いといて』


『咲ちゃん』


『頼れる子がいるなら、それでいいじゃない』


「生徒に……頼る……」


 咲は、小さく呟いた。


『私だってね』


『秀一君や、京子ちゃんに支えられていたもの』


『人には、それぞれ得意なことがある』


『監督だからって、全部一人でやる必要なんてないのよ』


 咲は、黙って聞いていた。


『依存するのは駄目』


『でも――』


『信頼するのは、悪いことじゃないわ』


 その言葉は、咲の胸に、

 静かに染み込んだ。


「……ありがとう、姉さん」


 咲は言った。


「なんだか……やっていけそうだよ」


『いいのよ』


 神楽は、優しく言った。


『可愛い妹だもの』


 通話が切れた。


 部屋には、静寂が戻った。


 咲は、ベッドに横になった。


 思い出すのは、グラウンドの光景。


 進藤竜也。


 高柳龍二郎。


 六条遊人。


 天宮真十郎。


 そして――


 高橋雪夜。


「信頼……か……」


 咲は、静かに目を閉じた。


 その夜、九条咲は、久しぶりに穏やかな眠りについた。


 一方――


 電話を終えた神楽は、窓の外の星空を見上げてほほ笑んでいた。


「頑張れ、咲ちゃん」


 その声は、

 誰にも聞こえていなかった。


 それでいい……

 夜風がそっとカーテンを揺らし、静かにエールを運んでいた。

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