第66話 ささやき戦術の意味
九条姉妹の会話は、まだ続いていた。
神楽は、咲の顔をじっと見つめた。
「去年と比べたら、咲ちゃんも監督らしくなって……」
優しく微笑む。
「お姉ちゃん、嬉しいわぁ」
その言葉に、咲はわずかに眉をひそめた。
「負けたのに……そんなこと言われても」
悔しさを押し殺した声だった。
神楽は何も答えず、ただ微笑んでいた。
まるで――それもすべて、分かっていると言うように。
その頃。
少し離れた場所では、別の会話が始まっていた。
「おい、秋月」
東鶴間高校のキャプテン、渡辺貴明が声をかけた。
桜桜花高校の捕手、秋月小十郎は一瞬だけ視線を向け、
「……ええ、なんでしょう」
と、静かに答えた。
その丁寧すぎる口調に、東鶴間の選手たちは戸惑う。
試合中の、あの挑発的な男とは別人のようだった。
その空気を察したのか――
斉藤秀一が、くすりと笑った。
「悪いねぇ」
「小十郎は人見知りだから」
軽い口調で言う。
「だけど、野球をしている時は、あんな感じなんだ」
渡辺は、斉藤をまっすぐ見た。
「ああ、そうなんだ……じゃなくて」
一歩、前に出る。
「おい、斉藤」
低い声だった。
「お前に聞きたいことがある」
斉藤は、すぐに答えた。
「ああ……ささやき戦術のことだろう」
渡辺の目が、わずかに見開かれる。
図星だった。
「……なんで、俺だけに仕掛けてきたんだ」
斉藤は、まるで当然のことのように答えた。
「君が捕手だからだよ」
笑みを浮かべたまま続ける。
「捕手は、チームの頭脳だ」
「そこを揺さぶれば、チーム全体が揺れる」
渡辺は、しばらく沈黙し――
そして、小さく息を吐いた。
「そうか……」
静かに言う。
「理由が分かって、スッキリしたよ」
斉藤は、肩をすくめた。
「まあ、正攻法でいってもよかったんだけどね」
「ちょっと試してみたいことがあったんでね」
渡辺の眉が動く。
「試したいこと?」
斉藤は、渡辺を見た。
「ああ」
そして――
ゆっくりと視線を動かす。
「僕の球、どうだったかい」
渡辺は苦笑した。
「速すぎて、かすりもしなかったよ」
その答えを聞いた斉藤は、満足そうに頷いた。
「そうかい……」
だが、すぐに続けた。
「それでも――」
その視線は、すでに渡辺には向いていなかった。
「僕のストレートを打った人がいるよねぇ」
斉藤の視線の先には――
高柳龍二郎と、高橋雪夜がいた。
「そうだろう?」
静かな声だった。
だが、その目は――
まるで獲物を見つけた観察者のように、光っていた。




