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第62話 五回表

 五回表。


 斉藤秀一は、マウンドで軽く肩を回し、投球練習を終えた。

 捕手の高早弘至が、マスクをつけたまま近づく。


「秀一……この点差で、本当に投げるのかい」


 高早の声には、わずかな躊躇が混じっていた。


 斉藤は、あっさりと頷く。


「ああ、いいのさ。

 どうせ――高柳龍二郎と高橋雪夜に、打席が回ってくる」


 その名を口にした瞬間、斉藤の表情が、わずかに楽しげになる。


「だからこそ、試してみたいんだ」


「……県大会優勝……そのためかい?」


 高早が尋ねると、斉藤は首を振った。


「それもあるけどね。

 本当は――全国大会優勝、そのためだよ」


 視線をベンチの方へ向ける。


「尚文が頑張ってくれたから、こうして試せる。

 その価値は、十分ある」


「……分かった。でも、無理はしないでくれよ」


「分かってる。無理はしないさ」


 そう言って、斉藤はマウンドに立った。


 東鶴間の攻撃。

 九番・六条遊人。


 斉藤は、ボールを指先で転がしながら、小さく呟く。


「それじゃあ……いきますか」


 初球。


 真ん中――ストレート。


 六条は、反応すらできなかった。


 ストライク。


(……え?)


 六条の脳が、遅れて理解する。


(速い……いや、見えなかった……)


 電光掲示板に表示された数字。


 150km/h。


 ざわめきが、球場を包む。


 二球目も、真ん中。

 今度は振ったが――空を切った。


 ツーストライク。


 三球目。


 またしても、真ん中のストレート。


 六条は、完全に置き去りにされた。


 空振り三振。


 ベンチへ戻る途中、六条は高柳龍二郎に声をかける。


「……斉藤さんの球、

 速すぎて……本当に、見えなかった」


 高柳は、バットを握りながら、口元だけで笑った。


「そうか……」


 そして、静かに言う。


「――面白い」


 こうして。


 一番・高柳龍二郎の打席が、始まろうとしていた。


 一番――高柳龍二郎。


 バッターボックスに立った高柳を見て、斉藤秀一は小さく笑った。


「ふふ……試させてもらうよ、高柳龍二郎」


 その声は、挑発でも嘲笑でもない。

 純粋な興味だった。


 初球。


 真ん中――ストレート。


 高柳は、あえて動かなかった。


 ストライク。


(……確かに、速い)


 だが、同時に思う。


(――だが、真ん中だ)


 二球目。


 またしても、真ん中。


 高柳は、迷わなかった。


 来る。

 また、ストレートが来る。


 高柳は、全身を使って振り抜いた。


 ――乾いた衝撃音。


 打球は一直線に、ライト方向へ伸びていく。


 外野手は、一歩も動かなかった。


 ホームラン。


 球場が、どよめいた。


 高柳はベースを回りながら、心の中で呟く。


(俺相手に……二球続けて、真ん中のストレート)


(舐めているのか……それとも――)


 マウンドの斉藤は、帽子のつばを軽く押さえ、口元を緩めていた。


(へぇ……やるじゃないか)


(さすがだよ。天才打者と呼ばれるだけはある)


 高柳がホームベースを踏む。


 ベンチへ戻る途中、次の打者――高橋雪夜に低く声をかけた。


「なあ……」


 雪夜が顔を向ける。


「もしかしたら――俺たち、

 試されているのかもしれない」


 雪夜は一瞬、間を置いてから、静かに頷いた。


「……分かった」


 そして。


 二番――高橋雪夜の打席が、始まろうとしていた。


 高柳龍二郎のホームランで、点差は5対17。

 それでもなお、12点差という現実は動かなかった。


 二番――高橋雪夜。


 バッターボックスに入る雪夜を見て、マウンドの斉藤秀一は楽しげに口元を歪めた。


「ふふっ……高柳龍二郎の次は、高橋雪夜か……」


 初球。


 低めいっぱいに突き刺さるストレート。


 雪夜は、動かなかった。


 ストライク。


 電光掲示板に表示された球速は、153キロ。


(……速い)


 胸の奥が、ひりつく。


(さっきより……さらに速くなっている)


 斉藤は、本気だった。

 力だけではない。コースを使い、狙って投げてきている。


 二球目。


 今度は、高め。


(来る……ストレートだ)


 雪夜は、覚悟を決めた。


 ――振る。


 バットの芯を外した感触。

 それでも、必死に押し返す。


 打球は、ふらりと浮き、レフト前へ落ちた。


 ヒット。


 ベースに立った雪夜は、息を吐いた。


(……通じた……のか)


 マウンドの斉藤は、悔しそうでもなく、むしろ満足そうに笑っていた。


(……投げてみて、よかったよ)


(やはり面白い……君たちは)


 捕手の高早弘至が、マウンドへ歩み寄る。


「秀一……真っ向勝負は、どうだったかな?」


 斉藤はボールを握り直し、静かに答えた。


「ああ……試せて、良かったよ」


 そして、目を細める。


「次は、変化球も混ぜていく。

 もう、試したいことは全部試したからね」


「……そうかい、分かった」


 高早はそれ以上、何も言わなかった。


 そして――


 三番、新井元気の打席。


 試合はまだ続く。

 だが、東鶴間は確かに、桜桜花の核心に触れていた。


 高橋雪夜にヒットを許してもなお、

 マウンドの斉藤秀一は、まったく動じていなかった。


 三番、新井元気。


 斉藤は、静かにサインを確認すると、迷いなく腕を振った。


 初球。

 内角低め――高速スライダー。


 元気は反応すらできず、ただボールを見送った。


 ストライク。


(……まじかよ)


(なんだよ、あのスライダー……)


 二球目。

 外角高めのストレート。


 元気は振った。

 だが、バットは空を切る。


 ツーストライク。


 三球目。

 低めに沈む――スプリット。


 必死に振りにいった元気のバットは、虚しく空振りした。


 三振。ツーアウト。


 打席に戻る元気の背中を、誰も責められなかった。

 ――相手が、あまりにも別次元だった。


 四番、渡辺貴明。


 バッターボックスに入る前、渡辺は捕手の高早弘至に声をかけた。


「おい……なんで秋月がレフトに行っているんだよ」


 高早は落ち着いた声で答える。


「ああ。秋月君は、うちの主力だからね。

 斉藤君の球を受けて、もし怪我でもしたら困るだろう?

 だから、僕が捕手をしているんだよ」


「……そうか」


 渡辺は短く息を吐いた。


「あいつには、文句を言いたかったが……仕方ないな」


「試合が終わったら、直接言えばいいさ」


 その言葉に、渡辺は小さく頷いた。


 ――だが、その“試合の後”が、すぐそこまで来ていることを、

 誰もが分かっていた。


 初球。

 真ん中のストレート。


 渡辺は反応できず、見送るしかなかった。


 ストライク。


 二球目。

 またしても、真ん中。


 今度は振った。

 だが、バットは届かない。


 ツーストライク。


 球場が、静まり返る。


 これが、最後かもしれない――

 誰もが、そう感じていた。


 三球目。


 再び、真ん中のストレート。


 渡辺は、全力でバットを振った。


 だが――


 空振り。


 ――三振。


 ゲームセット。


 スコアは、5対17。

 12点差の五回コールド。


 その瞬間、

 東鶴間高校野球部、三年生の夏は、静かに終わった。


 歓声と拍手の向こうで、

 誰かが、唇を噛みしめていた。


 悔しさも、無力感も、

 すべてを抱えたまま――

 それでも、彼らはここまで来たのだ。

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