第54話 雰囲気の違い
球場に入った瞬間から、空気ははっきりと分かれていた。
桜桜花高校野球部のベンチは、驚くほど静かで、そして緩やかだった。
笑顔もあれば、談笑する声もある。まるで練習試合にでも臨むかのような、余裕。
「秀一君、さっきのは言い過ぎだと思うよ」
マネージャーの若林京子が、小声でそう告げる。
「仕方ないさ」
斉藤秀一は、軽く肩をすくめた。
「あそこまで言わないと、奮起しないと思ったんだ。
……それにさ」
彼は視線をグラウンドの向こう、東鶴間のベンチへ向ける。
「少しは本気になってもらわないと、僕が投げる機会がなくなるだろ?」
「……そんなに投げたいの?」
「当然だよ」
斉藤は笑った。
だが、その笑みは、どこか歪んでいた。
「試さなきゃいけないんだ。
今の僕が、投手としてどこまで通用するのかを……ね」
その表情は、喜びと同時に、
かすかな狂気を孕んでいた。
一方――
東鶴間高校野球部のベンチは、重かった。
言葉少なに、選手たちは俯き、時折視線を交わすだけ。
その中心で、キャプテンの渡辺貴明が、ゆっくりと口を開いた。
「……みんな、昨日はすまなかった」
静かな声。
「天宮だって、投げたくなくて投げないわけじゃないのに……
天宮、すまなかった」
「謝らないでください、キャプテン」
天宮真十郎は、ぎこちなく笑った。
「僕のほうこそ……投げられなくて、すいません」
渡辺は首を振る。
「……みんな、こんなこと言うのもあれだがな」
一拍、間を置いて。
「今日で、俺たち三年生は……引退試合になると思う」
空気が、張りつめた。
一年生と二年生は、思わず背筋を伸ばし、
三年生は、静かに覚悟を固めた。
「万年一回戦負けだった俺たちが、四回戦まで来たんだ」
渡辺は、笑った。
「正直、奇跡みたいなもんだろ。
だからこそ――今日は、悔いの残らないようにやろう」
そして、視線を上げる。
「全力で、挑もうじゃないか」
渡辺は、監督の九条咲のほうを向いた。
「監督……俺たちの勇姿、しかと見届けてください」
「ああ」
九条咲は、短く、しかし確かに頷いた。
「お前たちの勇姿、しかと見届けようじゃないか」
渡辺は深く息を吸い、
「――それじゃあ行くぞ」
拳を握る。
「東鶴間野球部。さあ、行こう!」
「「おうっ!」」
声が重なった。
こうして――
東鶴間高校と桜桜花高校、四回戦の幕が、静かに上がろうとしていた。




