第49話 不安と現実
天宮真十郎の表情が、どこか沈んでいることに、高橋雪夜は気づいていた。
試合後の喧騒から少し離れた場所で、雪夜は天宮の背中を追いかける。
「天宮……」
呼び止めると、天宮は立ち止まったが、振り返らなかった。
「僕にも……言えないことなのか?」
しばらくの沈黙のあと、天宮は小さく息を吐いた。
「……君には、知られたくなかったけど」
低い声で、はっきりと言う。
「今の僕は……投げられる状態じゃないんだ」
それだけ告げると、天宮はそのまま部室へ向かって歩き出した。
「……天宮……」
雪夜は、それ以上、声をかけられなかった。
その頃、部室の中はまだ勝利の余韻に包まれていた。
「まさか、あの東林に勝てるなんてな」
「夢みたいだよな」
二年生、三年生が浮かれるのも無理はない。
強豪校に勝つなど、つい数日前まで誰も本気では考えていなかったのだから。
そこへ、九条咲監督が姿を現した。
部室が、わずかに静まる。
マネージャーの夏目真衣が、一歩前に出た。
「みなさん、次の対戦相手――桜桜花高校について説明します」
夏目は、落ち着いた声で続ける。
「桜桜花高校は、創設三年目ながら、昨年は四回戦まで進出しています。
要注意人物は三年生の斉藤秀一さん。打撃、走塁、肩、守備、すべてが一流です。
……苦戦は避けられないと思います」
しかし、その言葉は、浮かれた空気にかき消された。
「大丈夫だって」
「うちには天宮と高橋がいるじゃないか」
「東林にも勝てたんだぞ?」
好き勝手な声が飛び交う。
その輪の外で、天宮は黙って俯いていた。
九条監督が、静かに口を開く。
「……では、スタメンを発表する」
空気が一変した。
「一番、ファースト――高柳龍二郎」
「二番、セカンド――高橋雪夜」
この時点で、何かを察した者がいた。
「三番、センター――新井元気」
「四番、キャッチャー――渡辺貴明」
――天宮の名前が、呼ばれない。
部室に、不穏な沈黙が広がった。
「五番、レフト――中田大」
「六番、ライト――中山太郎」
「七番、サード――進藤竜也」
「八番、ピッチャー――座間康太」
「九番、ショート――六条遊人」
最後まで、天宮真十郎の名はなかった。
耐えきれず、キャプテンの渡辺が口を開く。
「監督……天宮は、投げないんですか?」
九条は、天宮の方を見た。
「……天宮。私から説明しようか?」
天宮は一瞬迷い、静かに頷いた。
「……お願いします」
九条は、部室全体を見渡してから言った。
「天宮は、東林戦で無理をしていた。
正直に言えば……次の試合で投げられる状態じゃない」
「そんな……」
誰かの声が漏れた。
「天宮は中学三年の大会後、野球から離れていた。
高校では体力作りから始めたが……連投できるほどの基礎は、まだ足りていない」
九条は、はっきりと言い切った。
「東林戦の完封は、奇跡に近い。
だからこそ、これ以上無理はさせられない」
誰も、反論できなかった。
実戦から離れていた一年生が、九回を投げ切った――
それがどれほどの負担だったか、全員が理解していた。
部室に、重い空気が落ちる。
勝利の余韻は、いつの間にか消えていた。
――四回戦は、もう「勢い」だけでは勝てない。
その現実を、誰もが痛感していた。




