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第38話 遅い球の意味

 高橋雪夜の練習投球を見て、相手校のベンチがざわついた。


「……あの投手の球、遅くないか?」


 誰かが、笑い混じりにそう言った。


 雪夜の耳にも、その声は届いていた。


 ――分かっている。


 速くない、むしろ遅い。

 自分の球が、全国レベルで見れば凡庸だということは。


 それでも。


 雪夜は、マウンドに立っていた。


 九回表。

 七番打者が打席に入る。


 初球。


 低めに投げ込まれたストレートは、

 きれいに弾かれ、一塁方向へ転がった。


 ヒット。


 ランナー一塁。


 ベンチがざわめく。


「ほらな」「やっぱり――」


 そんな空気が、グラウンドを包む。


 だが、雪夜の表情は変わらなかった。


 ――これでいい。


 続く八番。


(遅い球は、もう見せた)


 雪夜は、静かにサインを確認する。


(あとは――引っ掛かるか、どうかだ)


 投じた球は、

 ゆるやかに落ちていくように見えた。


(カーブか)


 打者は、そう判断した。


(へなちょこだな。もらった)


 スイング。


 だが――


 打球の軌道が、わずかに狂う。


 それは、カーブではなかった。


 打球は二塁方向へ。


「二塁!」


 高柳龍二郎が捕球し、

 六条遊人が受け取り、六条は迷いなくベースを踏む。


「一塁!」


 六条遊人が一塁へ送球。


 ――併殺。


 球場が、一瞬静まり返った。


「……あの球、カーブじゃないぞ」


 相手校ベンチが、ざわつく。


 雪夜は、誰にも聞こえない声で呟いた。


「うん。カーブじゃないよ」


 ツーアウト。


 九番打者。


 打席に立つその背中は、強張っていた。


 ――もう、アウトになれない。


 そう思えば思うほど、

 心は雪夜の手のひらの上にあった。


 カウントは、ツーストライク。


 そして、最後の一球。


 再び、

 カーブに“見える”変化球。


 打者は振る。


 ――空を切った。


「ストライク、バッターアウト!」


 審判の声が、はっきりと響く。


 ゲームセット。


 その瞬間。


 万年一回戦負けだった東鶴間高校が、

 確かに――勝った。


 派手なガッツポーズはなかった。


 ただ、

 雪夜はマウンドで静かに息を吐き、

 グラブを見つめていた。


 ――遅い球でも、勝てる。


 それを証明した九回だった。

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