第37話 九条咲の采配
九回表を前に、グラウンドはざわめいていた。
誰が投げるのか。
それは誰の目にも明らかだった――はずだった。
だが、監督の九条咲は静かに、ある名前を口にした。
「……高橋。お前が投げろ」
一瞬、耳を疑った。
「え……僕が、投げるんですか?」
高橋雪夜は思わず聞き返した。
九条は、ベンチの奥から雪夜を見据える。
「そうだ。私との約束もある。
この試合を――お前が決めてこい」
雪夜は言葉に詰まった。
「でも……僕より、天宮のほうが――」
「お前の目標は、何だ?」
遮るように、九条が問いかける。
「一回戦を突破すること。
それだけか?」
雪夜は、はっきりと首を振った。
「……違います」
迷いはなかった。
九条は、わずかに口角を上げる。
「なら、お前が投げるべきだ」
その一言で、すべてが腑に落ちた。
「……分かりました」
雪夜は、ゆっくりと息を吐く。
「僕が――決めてきます」
そう言って、ボールを手に取った。
マウンドへ向かう途中、
捕手の渡辺貴明が歩み寄ってくる。
「高橋……変化球はあるか?」
雪夜は一瞬考え、正直に答えた。
「スライダーとシュートとシンカー……
それと、もう一つ……使い手の少ない変化球があります」
「……なに?」
渡辺は思わず目を見開く。
渡辺も、実際に見たことがない変化球だったからである
「本当か?」
「ええ。
今は打順も下位ですし……それに、僕の決め球は今、投げる人が少ないと思うから、なんとかなると思います」
渡辺は数秒、雪夜の顔を見つめたあと、うなずいた。
「分かった。
俺が、何とかリードする」
「お願いします」
二人は、短く言葉を交わす。
それだけで十分だった。
こうして――
捕手だった少年は、
この試合を締めるために、マウンドへ立つ。
高橋雪夜、初登板。
東鶴間高校の勝利は、
その右腕に、すべてが託された。




