第300話 その後の遊人と真衣
こうして、六条遊人と夏目真衣は恋人になった。
屋上には、春の風が静かに吹いていた。
先ほどまで緊張で胸がいっぱいだった遊人は、真衣の手を握ったまま、ようやく少しだけ笑うことができた。
「はは……恋人になれたけど……」
遊人は少し照れながら言った。
「部活では、今まで通りでお願いします」
真衣は涙の跡を拭いながら、優しく笑う。
「そのつもりだよ」
そして、少しだけ表情を引き締めた。
「それに、県大会が迫っているんだから、練習は大切にしようね」
「うん、そうするよ」
遊人は頷いた。
恋人になれた。
それは嬉しい。
けれど、今は東鶴間高校野球部にとって大切な時期だった。
城南ヶ丘学園高校に勝つ。
桜桜花高校に勝つ。
その目標へ向けて、練習をおろそかにするわけにはいかない。
遊人は少し迷ったあと、真衣へ言った。
「それで、大会が終わって、野球部を引退したら……してみたいことがあります」
真衣は首を傾げる。
「してみたいこと?」
「えっと……」
遊人は少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
「一緒に帰りたいです」
真衣は一瞬きょとんとした。
そして、思わず笑う。
「それって……一年生の時と同じだよね?」
「あっ……いや、その……」
遊人は慌てて首を横に振る。
「今は、海君も一緒に帰っているから……二人で帰ってみたいんだ」
「ああ、そういうことね」
真衣は納得したように頷いた。
だが、すぐに少し楽しそうな顔になる。
「それなら、野球部を引退したら、海は野球部に残るでしょう?」
「うん」
「だから、二人きりで帰れると思うけど?」
遊人は、そこでようやく気づいた。
「あっ……そうだったね」
真衣はくすりと笑った。
「もう、遊人君……動揺しているよね」
「だって……」
遊人は頬を赤くする。
「告白した後だから、なんか気が抜けて……」
「はは……仕方ないよね」
「うん……」
遊人は照れたように笑った。
真衣も、そんな遊人を見て穏やかに微笑む。
昨日までとは違う。
けれど、何もかも変わってしまったわけではない。
幼馴染として積み重ねてきた時間の上に、恋人としての関係が重なった。
それが、少し不思議で、少し嬉しかった。
真衣は屋上の扉の方を見る。
「じゃあ……野球部の練習に戻ろう、遊人君」
「うん、そうだね」
二人は並んで屋上を後にした。
一方、グラウンドでは東鶴間高校野球部の練習が続いていた。
六条遊人と夏目真衣がいなくても、部員たちはそれぞれ自分の練習に集中していた。
高柳龍二郎は打撃練習をしていた。
強い打球を、何度も打ち返している。
高橋雪夜は、天宮真十郎の投球を受けていた。
ミットに収まる球の音が、グラウンドに響く。
新井元気は、外野の守備練習をしていた。
浮田総二と竹田栄司は打撃練習。
白石広志と夏目海と伯方歩夢は、それぞれ投球練習に取り組んでいた。
早田士郎は、盗塁練習とバント練習を繰り返していた。
誰も手を抜いていない。
遊人と真衣がいないことを気にしていないわけではない。
だが、今は練習の時間だった。
県大会が迫っている。
最後の夏が近づいている。
だから、誰も立ち止まることはできなかった。
そんな時、遊人と真衣がグラウンドに戻ってきた。
雪夜は真十郎との投球練習を終えると、遊人のもとへ歩いていった。
遊人は少し緊張したように雪夜を見る。
「雪夜……野球部はどうだったかな」
雪夜は軽く頷く。
「うん、なんとかなったよ。みんな、練習に集中しているからね」
「それは……よかったよ」
遊人は少し安心したように息を吐いた。
雪夜は、遊人の表情を見て何となく察した。
昨日のような焦りはない。
真衣と目を合わせられないようなぎこちなさも薄れている。
完全にいつも通りではない。
けれど、悪い空気ではなかった。
「さて……練習に戻ろうか」
雪夜がそう言うと、遊人はすぐに頷いた。
「うん。遅れた分も、練習するよ」
こうして、六条遊人は練習に戻った。
遊人の動きは、いつも通りだった。
守備範囲。
スローイング。
捕球。
送球。
どれも安定している。
打球に対する一歩目も速く、肩の強さも変わらない。
昨日の告白があったからといって、守備が崩れることはなかった。
ただ、一つだけ違うことがあった。
夏目真衣との会話だった。
休憩中、真衣が遊人のもとへ歩いていく。
「遊人君、今日も守備はいいね」
そう言って、ドリンクを渡した。
遊人は少し照れながらも、昨日より自然に受け取る。
「うん、ありがとう、真衣ちゃん」
そのやり取りは、言葉だけならいつもと大きく変わらない。
だが、空気が違っていた。
ぎこちなさではない。
どこか穏やかで、少し照れくさくて、それでいて嬉しそうだった。
その様子を見ていた野球部の面々は、同じことを思っていた。
(なんか……昨日と様子が違うように見える)
元気は首を傾げる。
唯は少し察したように微笑む。
海は姉と遊人を見て、何とも言えない表情をしていた。
龍二郎は特に何も言わず、素振りを続けていた。
雪夜は、二人の様子を見ながら心の中で呟く。
(どうやら、告白はできたみたいだね)
そして、少しだけ安心した。
遊人が後悔しないように。
そう思って背中を押した。
その結果が、今の二人の空気なのだとしたら、よかったのだろう。
雪夜はミットを握り直し、練習に戻った。
今日の練習も終わりに近づいていく。
最後まで、部員たちは集中して練習を続けた。
そして練習後。
遊人と真衣と海が、いつものように一緒に帰ることになった。
ただ、昨日とは明らかに空気が違っていた。
遊人と真衣は、まだ少し照れている。
けれど、一昨日のように言葉に詰まって沈黙することは少なかった。
海は二人の間に流れる空気を感じ取りながら、昨日より少しだけ楽そうにしていた。
それを見ていた野球部の面々は、やはり同じことを思った。
(何か、あったんだろうな……)
けれど、誰も深く聞かなかった。
県大会が迫っている。
今は、野球が最優先だった。
それでも、遊人と真衣の間にあったぎこちなさが少し和らいだことは、部員たちにも伝わっていた。
そして、野球部のみんなも、それぞれ帰路についた。
東鶴間高校野球部の一日は、こうして終わっていった。
恋人になった二人がいても。
新しい関係が始まっても。
練習は続く。
最後の夏へ向けて、東鶴間高校野球部は今日も前に進んでいた。




