第295話 今日の出来事
こうして、今日の出来事を話し始めた高橋雪夜。
「実は……名前は言えないんだけど、今日起こった出来事なんだけどね……」
「うん」
「うちの野球部で、ちょっとした……告白みたいなことがあったんだ」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
そして、礼里の声が少し低くなる。
「告白?」
「うん」
「雪夜が?」
「違うよ」
雪夜はすぐに否定した。
「僕じゃないよ」
「そうか」
礼里は、なぜか少しだけ安心したような声を出した。
雪夜は首を傾げる。
「なんでそこで安心するのさ」
「別に安心なんてしていない」
「今、ちょっと安心していたように聞こえたけど」
「気のせいだ」
礼里はきっぱりと言った。
雪夜は苦笑しながら続ける。
「とにかく、ある男子が、ある女子のことを好きだって言ってしまって……しかも、みんなの前で」
「それは……大変だな」
「うん。本人も言ったあとに恥ずかしくなって、走って行ったよ」
「青春だな」
「礼里までそう言うの?」
雪夜は少し困ったように笑った。
礼里は小さく笑う。
「だって、そうだろう。みんなの前で好きだと言って、恥ずかしくなって走って逃げたんだろう?」
「まあ……そうだけど」
「それは青春だ」
雪夜はペンを置き、椅子にもたれかかった。
「僕は、どうしたらいいのかなって思って」
「雪夜が?」
「うん」
雪夜は静かに言った。
「キャプテンとして、こういう時にどうすればいいのか分からないんだ。変に口を出すのも違う気がするし、でも気まずいままだと練習に影響するかもしれないしさ」
礼里はしばらく黙った。
そして、落ち着いた声で言う。
「放っておいてやればいいんじゃないか」
「放っておく?」
「少なくとも、今すぐ雪夜が何か言う必要はないと思う」
礼里は続ける。
「その二人の問題だろう? 周りが騒げば騒ぐほど、本人たちは余計に気まずくなる」
「それは……確かに」
「ただ、部活に支障が出るなら、その時はキャプテンとして声をかければいい」
礼里の声は、どこかマネージャーらしい冷静さがあった。
「でも、気持ちのことまで雪夜が背負う必要はない」
雪夜は、その言葉を静かに聞いていた。
礼里はさらに言う。
「雪夜は、何でも自分が何とかしないといけないと思いすぎるところがあるぞ」
「そうかな」
「そうだ」
即答だった。
雪夜は少し苦笑する。
「礼里は、はっきり言うね」
「幼馴染だからな」
また、その言葉だった。
雪夜は少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう。少し楽になったよ」
「ならよかった」
礼里はそこで少し黙った。
そして、少しだけ声を落とす。
「それに……誰かを好きになることは、悪いことじゃないだろう」
「うん」
「言えるうちに言えたなら、それはそれでいいんじゃないか」
その言葉に、雪夜は少しだけ胸が痛くなった。
礼里の言葉には、どこか自分自身の過去も混じっているように思えた。
元気に告白できなかった礼里。
唯に告白できなかった雪夜。
好きな人に想いを言えなかった者同士だからこそ、礼里の言葉は重かった。
雪夜は静かに答える。
「そうだね」
そして、少しだけ笑った。
「言えたなら、それはすごいことなのかもしれないね」
「ああ」
礼里の声も、少し優しくなった。
その後、二人は少しだけ野球部の話をした。
城南ヶ丘の新入部員のこと。
東鶴間の少人数での練習のこと。
夏に向けて、互いにどう準備しているか。
敵同士であることに変わりはない。
夏に当たれば、戦う相手になる。
それでも、こうして話す時間は、雪夜にとって不思議と落ち着くものだった。
やがて、礼里が言った。
「じゃあ、今日はこの辺にしておく」
「うん。電話ありがとう、礼里」
「別に。雪夜の声が暗かったから、少し気になっただけだ」
「それを心配って言うんじゃないの?」
「言わない」
礼里はすぐに否定した。
雪夜は小さく笑う。
「そっか」
「ああ。それじゃあな、雪夜」
「うん。またね、礼里」
通話が切れた。
雪夜はしばらく携帯電話を見つめていた。
そして、日記に向き直る。
今日、六条遊人が夏目真衣に想いを言った。
それは、思いがけない出来事だった。
けれど、悪いことではないのかもしれない。
言えるうちに言えたなら、それはそれでいい。
礼里の言葉を思い出しながら、雪夜はペンを走らせた。
恋も、野球も、人の気持ちも。
すべてを自分が背負うことはできない。
ただ、キャプテンとして、仲間が前に進めるように見守ることはできる。
雪夜は、そう思った。
そして、日記の最後に小さく書いた。
明日も、練習。
その言葉だけは、いつもと変わらなかった。




