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第290話 打てる遊撃手

 高橋雪夜が正捕手になることが決まり、東鶴間高校野球部は三盗封じの練習を始めていた。


 雪夜の肩が弱い。


 それは、チームにとって避けては通れない問題だった。


 相手がそこを突いてくることは、十分に考えられる。


 だからこそ、雪夜は三塁手の竹田栄司とともに、三盗を防ぐための練習を繰り返していた。


 最初は上手くいかなかった。


 雪夜の送球そのものは悪くなくても、栄司の捕球からタッチまでの動きが遅れ、アウトにできないことが多かった。


 だが、何日も練習を続けるうちに、栄司の守備も少しずつ良くなっていた。


 まだ完璧ではない。


 白石広志の方が守備は安定している。


 それでも、栄司は三塁を諦めなかった。


 雪夜が言ったからだ。


 うちのサードは栄司だから。


 その言葉を胸に、栄司は今日も練習を続けていた。


 東鶴間高校野球部の面々は、少しずつ力をつけている。


 派手な成長ではない。


 一日で見違えるように変わるわけでもない。


 それでも、昨日より今日。


 今日より明日。


 少しでも強くなるために、練習の日々は続いていた。


 そんなある日の休憩中。


 六条遊人と高橋雪夜は、グラウンドの隅で話をしていた。


 話題は、打てるショートのことだった。


 遊人は自分のグラブを見ながら、ぽつりと言う。


「僕も、打てるショートになりたいって思っているんだ」


 雪夜は少し考えるように腕を組んだ。


「うーん……ショートは守備の負担が大きいからねぇ」


 そして、遊人を見る。


「打撃力も上げるとなると、難しいと思うよ」


「そうだよねぇ……」


 遊人は小さく息を吐いた。


 六条遊人は、守備なら東鶴間高校でも屈指の選手だった。


 肩も強い。


 守備範囲も広い。


 遊撃手としての能力は高い。


 だが、打撃には悩んでいた。


 守れるだけでは足りない。


 自分も打撃でチームに貢献したい。


 そう思っていた。


「誰か、打てるショートの話を聞いてみたいよ」


 遊人がそう言うと、雪夜は少し首を傾げた。


「そう言っても、うちでショートができるのは……広志と元気ぐらいだけど……」


 その言葉に、遊人は驚いたように顔を上げる。


「えっ、新井って……ショートもできるの?」


「うん」


 雪夜は頷いた。


「でも、本職はセカンドだけどね」


「そういえば……」


 遊人は少し考える。


「新井がセカンドをしているところを、見たことがなかったよ」


 そして、不思議そうに聞いた。


「なんでセカンドをやめたの?」


 雪夜は少しだけ困ったように笑った。


「まあ……簡単に言うと、唯が中学で野球を引退したからだよ」


「小山さんが?」


「うん」


 雪夜はグラウンドの端でマネージャーの仕事をしている小山唯の方を見る。


「元気は、唯以外と二遊間を組みたくないんだよ」


 遊人は目を丸くした。


「えっ……小山さんって、ショートだったの?」


「まあ……そうだけど」


 雪夜にとっては当たり前のことだった。


 だが、遊人にとっては初耳に近い話だった。


 今の唯は、東鶴間高校野球部のマネージャーだ。


 スコアをつけ、練習を支え、元気を見守っている。


 だが、中学時代の唯は選手だった。


 しかも、遊撃手だった。


 遊人は身を乗り出す。


「でっ、小山さんの中学時代って、どうだったの?」


 雪夜は少し考えた。


「どうって……」


 そして、当然のように言う。


「打てるショートだったよ」


「えっ、そうなのっ!」


 遊人の声が少し大きくなる。


 雪夜は頷いた。


「うん。パワーはないけど、ヒットにする能力は高かったよ」


 それから、少し懐かしそうに続ける。


「それに、守備は元気より上手いよ」


「新井より……」


 遊人は驚いていた。


 元気は器用な選手だ。


 外野もできる。


 内野もできる。


 ミート能力も高い。


 その元気より、唯の守備は上手かった。


 遊人にとって、それはかなり興味深い話だった。


「そうなんだ……」


 遊人は少し考え込む。


 打てるショート。


 パワーはなくても、ヒットにする能力が高い。


 守備も上手い。


 自分が聞きたい話を、唯なら持っているかもしれない。


 そう思った。


「僕、もっと上手くなりたいから、小山さんに話を聞いてみるよ」


 その瞬間、雪夜はすぐに言った。


「やめたほうがいいよ」


 遊人はきょとんとする。


「えっ、どうして?」


 雪夜は少しだけ声を落とした。


「唯は……元気の彼女だから」


「うん。それは知っているけど」


「唯と二人きりで話なんてしたら、元気がすっ飛んで来るよ」


 雪夜の声は冗談のようでいて、どこか本気だった。


 新井元気は普段、明るくて人懐っこい。


 誰とでも話すし、場を和ませることも多い。


 だが、唯のことになると話は別だった。


 昔から唯を大切にしてきた元気は、唯に近づく相手には敏感だった。


 遊人は苦笑する。


「別に、口説くわけではないから大丈夫だよ」


「いや、それでも……」


 雪夜は止めようとした。


 だが、遊人はすでに立ち上がっていた。


「僕、小山さんに話を聞いてくるよ」


「あっ」


 雪夜が止める間もなく、遊人は唯の方へ歩いていく。


 雪夜はその背中を見送りながら、思わず呟いた。


「……行っちゃったよ」


 そして、少し不安そうに元気の姿を探す。


「大丈夫かなぁ……元気は唯のことになると、怖いからねぇ……」


 雪夜は、遊人が悪いことをしようとしているとは思っていなかった。


 むしろ、遊人の気持ちは分かる。


 打てるショートになりたい。


 そのために、中学時代にショートだった唯から話を聞きたい。


 ただそれだけだ。


 だが、元気がそれを冷静に受け止めるかどうかは別の話だった。


 遊人は、そんな雪夜の心配を知らないまま、唯のもとへ向かっていく。


 雪夜は軽く頭を抱えた。


 そして、嫌な予感がしていた。


 その予感は、まもなく的中することになる。

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