第281話 歩夢と雪夜
伯方歩夢は、シンカー習得練習を続けていた。
双子の兄、伯方広夢に教わりながら、何度も投げた。
最初はまったく変化しなかった。
それでも、諦めずに続けた。
そして、一か月が過ぎようとしていた頃。
歩夢のシンカーは、確かに変化した。
まだ試合で使えるほどではない。
変化量も小さい。
制球も安定していない。
それでも、歩夢にとっては大きな一歩だった。
だからこそ、その成果を見てもらいたい人がいた。
高橋雪夜。
東鶴間高校野球部のキャプテンであり、これから正捕手になるかもしれない先輩。
歩夢は野球部の練習中、雪夜に声をかけた。
「雪夜さん」
「うん? どうしたの、歩夢」
雪夜が振り向く。
歩夢は少し緊張しながらも、これまでシンカー習得練習をしていたことを話した。
そして、ようやく変化するようになったことも伝えた。
雪夜は黙って聞いていた。
驚いたような顔はしたが、すぐに真剣な表情になる。
「……分かった。とりあえず投げてみようか」
「はい、お願いします」
歩夢は頭を下げた。
雪夜は捕手の防具をつけ、ホームベースの後ろに座る。
歩夢はマウンドに立った。
いつものストレートでも、高速スライダーでも、スローカーブでもない。
新しく覚えようとしているシンカー。
歩夢は深呼吸をした。
「では、投げてみます」
雪夜がミットを構える。
歩夢は腕を振った。
ボールは雪夜のミットへ向かっていく。
途中まで真っ直ぐに見えた球が、手元でわずかに沈む。
大きな変化ではない。
だが、確かに利き腕の方向へ落ちていた。
雪夜は捕球した。
ミットの音が、グラウンドに響く。
雪夜は少しだけ間を置いてから言った。
「……確かに、シンカーだね」
その言葉に、歩夢の表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「うん。もう少し投げてみようか」
「はい」
歩夢はもう一度、シンカーを投げた。
二球目。
三球目。
どれも完璧ではなかった。
変化する時もあれば、ほとんど沈まない時もある。
制球もまだ安定していない。
それでも、シンカーとしての形は見え始めていた。
雪夜は三球目を捕ると、立ち上がった。
そして、マウンドの歩夢のもとへ向かう。
「歩夢」
「はい」
「シンカー習得練習は、いつからしていたの?」
歩夢は少しだけ目を逸らした。
「えっと……一か月ぐらい前からです」
「それと並行して、野球部の練習もしていたよね」
「……はい……」
雪夜は少し黙った。
そして、歩夢の右腕を見る。
「歩夢。右腕を出してみて」
「分かりました」
歩夢は言われた通り、右腕を差し出した。
雪夜は確認するように言う。
「ちょっと、触るよ」
「あっ、雪夜さん……」
歩夢は少し緊張した。
雪夜は慎重に、歩夢の腕に触れた。
肘。
前腕。
手首。
筋肉の張り。
疲労の残り方。
投げ続けていた者の腕には、やはり変化があった。
雪夜はさらに、歩夢の右手を見る。
指先に視線を向けた。
「歩夢、指も見せて」
「はい……」
雪夜が指に触れる。
その瞬間、歩夢は小さく声を漏らした。
「痛っ……」
雪夜の表情が少し険しくなる。
「歩夢……無理していたみたいだね」
歩夢は何も言えなかった。
指の皮が剥けていた。
シンカー習得練習を続けた結果だった。
大きな怪我ではない。
だが、このまま無理を続ければ、もっと悪くなる可能性もある。
雪夜は静かに言った。
「歩夢。当分は投球練習の時間を減らそう」
歩夢は慌てて首を横に振る。
「大丈夫ですよ。皮が剥けたぐらいで……」
「無理をして、これ以上損傷したら、どうするの?」
その言葉に、歩夢は言い返せなかった。
雪夜の声は怒っているわけではなかった。
けれど、真剣だった。
歩夢のことを本気で心配している声だった。
「投球練習以外にも、練習方法はある」
雪夜は歩夢を見る。
「焦るのは分かるけど、無理はしないでほしい」
「雪夜さん……」
「歩夢は……僕たちの大切な仲間だから」
その言葉を聞いた瞬間、歩夢の目に涙が浮かんだ。
自分は強くならなければならないと思っていた。
城南ヶ丘戦で打たれた。
2イニング3失点。
七回コールド負け。
最後にマウンドに立っていたのは自分だった。
だから、もっと練習しなければならない。
もっと投げなければならない。
新しい変化球を覚えなければならない。
そう思い続けていた。
けれど、雪夜は違うことを言った。
大切な仲間だから、無理をしないでほしい。
その言葉が、歩夢の張り詰めていた心に触れた。
涙がこぼれる。
雪夜は少し驚いたように目を開いた。
そして、申し訳なさそうに言う。
「ごめん……歩夢に負担をかけさせてしまって……」
歩夢は首を横に振った。
「いえ、いいんです……」
涙を拭いながら、歩夢は言った。
「あの時、県大会準々決勝で負けたことが忘れられなくて……」
城南ヶ丘学園高校との準々決勝。
歩夢は2イニングで3失点した。
そして、最後の投手になった。
自分が試合を終わらせてしまった。
そう思っていた。
雪夜は静かに歩夢の言葉を聞いた。
そして、優しく言う。
「歩夢はよくやってくれたよ」
歩夢は顔を上げる。
「だから、そんなに思い詰めないでほしい」
「雪夜さん……」
「負けたことが悔しいのは分かる。強くなりたい気持ちも分かる」
雪夜はゆっくりと言葉を続ける。
「でも、歩夢が無理をして投げられなくなったら、僕はその方がつらいよ」
歩夢は、また涙をこぼした。
雪夜は少し迷ったあと、歩夢の頭にそっと手を置いた。
そして、優しく撫でる。
「少しずつでいいんだ」
雪夜は穏やかに言った。
「一緒に練習をしよう」
歩夢は小さく頷く。
「……はい、雪夜さん……」
シンカーは、確かに変化した。
だが、まだ完成ではない。
試合で使える球にするには、もっと時間が必要だった。
けれど、その時間は一人で背負わなくていい。
兄の広夢がいてくれる。
そして、雪夜も見てくれている。
歩夢はようやく、そのことに気づいた。
雪夜は、歩夢が抱えていた不安を知った。
城南ヶ丘戦の敗戦。
最後の投手になった悔しさ。
新しい変化球を覚えなければならないという焦り。
そのすべてを、歩夢は一人で抱えようとしていた。
雪夜はミットを握り直す。
(歩夢に、無理はさせたくない)
投手が強くなろうとすることは大切だ。
けれど、壊れてしまっては意味がない。
焦りすぎた時に止める。
悩んだ時に話を聞く。
その球を受け止める。
だからこそ、バッテリーなのだ。
雪夜はそう思っていた。
伯方歩夢のシンカー習得は、まだ始まったばかりだった。
けれど、歩夢はもう一人ではなかった。
少しずつでいい。
一緒に前へ進めばいい。
そう思えるだけで、歩夢の心は少し軽くなっていた。




