第280話 変化球習得練習
こうして、伯方歩夢のシンカー習得練習が始まった。
野球部の練習では、いつも通りの投球練習をする。
ストレート。
高速スライダー。
スローカーブ。
今ある球のキレを落とさないように、普段の練習は変えなかった。
そして夜になると、自宅で双子の兄、伯方広夢にシンカー習得の練習に付き合ってもらっていた。
広夢はボールを手に取り、歩夢へ声をかける。
「まず、僕がシンカーを投げるから、よく見ておいてね」
歩夢は真剣な表情で頷いた。
「うん、ちゃんと見ておくよ」
広夢は軽く肩を回し、ゆっくりと投球動作に入った。
そして、シンカーを投げる。
ボールは途中まで真っ直ぐに見えた。
だが、手元で利き腕の方向へ沈むように変化した。
大きく曲がるわけではない。
しかし、確かに変化していた。
歩夢はその軌道をじっと見ていた。
広夢はボールを受け取ると、歩夢を見る。
「歩夢には、僕ぐらいのシンカーを習得してもらうよ」
歩夢は少し不安そうに呟く。
「できるかなぁ……」
広夢は穏やかに笑った。
「まあ、僕のシンカーは、変化はしているぐらいの変化量だから、難しく考えなくてもいいよ」
そして、自分の持ち球を思い返すように続ける。
「僕は他にスライダーとカーブとフォークを投げるから、このぐらいの変化でも問題はなかったよ」
「兄さんと同じぐらいの変化……」
歩夢は小さく繰り返した。
大きな変化を求めるのではない。
高速スライダーを生かすための、反対方向への変化。
それが欲しい。
広夢はボールを歩夢に渡した。
「とりあえず、シンカーの握りから教えるね」
「うん」
歩夢は広夢の説明を聞いた。
握り方。
力の入れ方。
リリースの感覚。
腕の振りを変えすぎないこと。
無理に曲げようとしないこと。
広夢は一つずつ丁寧に教えてくれた。
歩夢は、その説明を忘れないように何度も確認した。
そして、広夢は少し離れる。
「と、説明はここまでにして……実際に投げてみよう」
「分かった」
歩夢はボールを握る。
教わったばかりのシンカーの握り。
まだ手に馴染まない。
いつもの高速スライダーとも、スローカーブとも違う感覚だった。
歩夢は深呼吸をして、腕を振った。
ボールが広夢の方へ向かっていく。
だが、ほとんど変化しなかった。
わずかに沈んだようにも見えたが、シンカーと呼べるほどではない。
歩夢は肩を落とした。
「やっぱり、シンカーって難しいんだね」
広夢はボールを拾いながら頷く。
「まあ、初めてだから、そんなものだと思うよ」
そして、優しく続ける。
「あとは、繰り返し練習をするだけだよ」
「うん……」
歩夢はもう一度ボールを握った。
すぐに投げられるようになるとは思っていなかった。
それでも、いざ変化しない球を見ると、悔しさがあった。
だが、ここで諦めるつもりはなかった。
城南ヶ丘戦の悔しさを、ただの後悔で終わらせたくない。
高速スライダーをもっと生かせる投手になりたい。
東鶴間高校の力になりたい。
その思いが、歩夢を支えていた。
それから、歩夢は何日も練習を続けた。
野球部では、今まで通りの投球練習。
自宅では、広夢とシンカーの練習。
最初のうちは、ほとんど変化しなかった。
力を入れすぎると、球が抜ける。
曲げようとしすぎると、腕の振りが不自然になる。
いつものストレートまでおかしくなりそうになり、広夢に止められることもあった。
「歩夢、無理に曲げようとしない」
「でも、曲がらないと……」
「焦らない。シンカーのために、今の球を崩したら意味がないよ」
広夢は何度もそう言った。
歩夢も分かっていた。
けれど、早く投げられるようになりたかった。
早く、新しい武器を手に入れたかった。
何度も失敗した。
何度も投げ直した。
それでも、少しずつ握りが手に馴染んでいった。
リリースの感覚も、わずかに分かってきた。
そして、一月が過ぎようとしていた頃だった。
歩夢はいつものように、広夢を相手にシンカーを投げた。
腕を振る。
ボールが広夢へ向かう。
途中まで真っ直ぐに見えた球が、手元でわずかに沈んだ。
利き腕の方向へ、確かに変化した。
広夢が捕球する。
そして、少し驚いたように歩夢を見た。
「今……変化したよ、歩夢」
歩夢は一瞬、言葉を失った。
「変化した……」
自分の手を見る。
何度も握ってきたボール。
何度も変化しなかった球。
その球が、今、確かに変化した。
「やっと……シンカーを投げられた……」
歩夢の声には、嬉しさと安堵が混じっていた。
広夢は優しく笑う。
「うん。歩夢の努力の結果だよ」
「うん……」
歩夢は強く頷いた。
「これからシンカーの練習を続けるよ」
もう一球投げたい。
今の感覚を忘れたくない。
そう思い、歩夢は再びボールを握ろうとした。
だが、広夢がそれを止めた。
「いや、今日はこの辺でやめておこう」
歩夢は驚いて顔を上げる。
「でも……」
「せっかくシンカーを投げられたんだから、無理はしないほうがいいよ」
「でも……今の感覚を忘れないようにしたいから……」
歩夢の気持ちは本物だった。
ようやく掴んだ感覚。
失いたくなかった。
けれど、広夢は首を横に振る。
「焦るのは分かるよ」
その声は優しかった。
だが、はっきりしていた。
「でも、無理をしたら本末転倒だからね」
歩夢は黙った。
広夢の言うことは正しい。
シンカーを覚えるために、腕を痛めてしまったら意味がない。
ストレートや高速スライダー、スローカーブのキレを失ってしまえば、それこそ本末転倒だった。
歩夢は少し悔しそうにしながらも、ボールを下ろした。
「……分かりました」
広夢は安心したように頷く。
「うん。それでいい」
こうして、伯方歩夢のシンカーは初めて変化した。
だが、まだ試合で使えるほどではない。
変化量は小さい。
制球も安定していない。
いつでも投げられるわけでもない。
それでも、歩夢は確かに一歩前進していた。
高速スライダーとスローカーブ。
そこに、シンカーという新しい可能性が加わろうとしている。
城南ヶ丘戦で終わったと思った自分の投球は、まだ終わっていなかった。
伯方歩夢は、少しずつ前に進んでいた。




