第279話 変化球の話
こうして、伯方歩夢は伯方広夢からシンカーを教わることになった。
だが、いきなり投げるわけではなかった。
広夢はまず、歩夢にシンカーという変化球の特徴を説明することにした。
「まずは、シンカーの特徴からだね」
広夢は落ち着いた声で話し始める。
「シンカーは、利き腕の方向に沈む変化球だね」
「利き腕の方向に沈む……」
「うん。歩夢は高速スライダーを投げるから分かるだろうけど、スライダーは利き腕と反対方向に曲がる変化球だよね」
歩夢は頷いた。
「うん」
「だから、その逆だと想像したらいいと思うよ」
歩夢は、自分の右手を見つめる。
「なるほど……スライダーと逆方向になる……」
高速スライダーとは反対の変化。
それが自分の投球に加われば、確かに打者の見え方は変わるかもしれない。
広夢は続けた。
「まあ、僕はシンカー以外にも、スライダーとカーブとフォークを投げるからね」
少しだけ苦笑する。
「的を絞らせないようにするために、球種を増やしたのさ」
「だから、兄さんは変化球を四種類も投げるようになったんだね」
「そういうことになるかな」
広夢は自分の右腕を見る。
「僕も歩夢も、球速は130キロぐらいだから、速球で勝負する投球スタイルではないよね」
「確かに、球速が速くないから……」
歩夢は少しだけ視線を落とす。
「高速スライダーとスローカーブで緩急をつけています」
「そう」
広夢は頷いた。
「僕は球種を増やして抑えるスタイル。歩夢は緩急をつけて抑えるスタイル。どちらも、変化球を使って抑える投球ではあるね」
「私には、剛速球はないから……」
歩夢の声には、少しだけ悔しさがあった。
天宮真十郎のような140キロの速球はない。
佐藤秋一郎のような剛速球など、なおさらない。
自分は速球で押す投手ではない。
それは分かっていた。
広夢は、歩夢の言葉を否定しなかった。
「そうだね。歩夢は二種類でも今まで通用した。でも……城南ヶ丘には通用しなかった」
その言葉に、歩夢は胸が少し痛んだ。
県大会準々決勝。
城南ヶ丘学園高校戦。
2イニング3失点。
七回コールド負け。
あの日の記憶は、まだ歩夢の中に残っていた。
「うん……」
歩夢は小さく頷く。
「緩急をつけても、打たれて負けました」
「そこで限界を感じて、シンカー習得を考えた」
「うん……そうなります」
広夢は少しだけ考えるように、腕を組んだ。
「僕たちに共通しているのは……剛速球がないことだね」
「うん……そうだよね」
「だからこそ、剛速球がないなら、ないなりに抑える術を持つ」
広夢の声は穏やかだった。
けれど、その言葉には投手としての実感があった。
「そういうことになるね」
歩夢はその言葉を噛みしめる。
「うん……だから、緩急をつけるスタイルにしたんだけど……」
「そこは間違ってないと思うよ」
広夢はすぐに言った。
歩夢は顔を上げる。
「間違ってない……?」
「うん。高速スライダーとスローカーブで緩急をつける。それは歩夢の投球として、ちゃんと形になっていると思う」
広夢は歩夢をまっすぐ見た。
「だからこそ、シンカーを習得できれば、さらに武器が増えることになるよ」
「武器が増える……」
「うん」
広夢は指を立てる。
「高速スライダーにスローカーブ。さらにシンカーを投げられるようになったら、打者は的を絞りづらくなる」
「そうなんですか」
「そうだね」
広夢は少し考えながら説明する。
「例えば、高速スライダーとスローカーブを多投したとする。打者は、その二つを中心に考えるよね」
「うん」
「そこで、打者がシンカーを警戒していなかったら……逆方向に沈む球が来ることになる」
歩夢は想像してみる。
高速スライダーを待っている打者。
スローカーブで緩急を意識している打者。
そこに、今までなかったシンカーが来る。
「それなら……打ち取れる可能性が上がる……」
「そういうことかな」
広夢は頷いた。
「打者に、的を絞らせない……」
歩夢は小さく呟いた。
ただ球種を増やすのではない。
高速スライダーを生かすために、別方向の変化を加える。
自分の投球を広げるためのシンカー。
そう考えると、少しだけ道が見えてくる気がした。
だが、広夢はそこで表情を引き締めた。
「とまあ、言うのは簡単だけど、練習となれば難しくなる」
「……はい」
「シンカーを練習しながら、ストレート、高速スライダー、スローカーブのキレを失わないように練習しなければならないからね」
広夢ははっきりと言う。
「他が劣化したら、本末転倒だから」
歩夢は真剣に頷いた。
「確かに……そうだよね」
新しい変化球を覚えたい。
その気持ちはある。
だが、そのせいで今までの武器が鈍ってしまえば意味がない。
高速スライダーを生かすためのシンカーなのに、高速スライダーのキレを失ってしまえば本末転倒だった。
広夢は時計を見た。
「さて、遅くなったから……練習は明日以降にしよう」
「はい」
歩夢は姿勢を正す。
「これからよろしくお願いします」
広夢はその様子を見て、ふっと笑った。
「ふふ……歩夢が僕に頼ってくれて、嬉しいよ」
歩夢は少し照れたように視線を逸らす。
「それは……兄さんだから、話ができると言うか……」
「うん。それでいいよ」
広夢は優しく言った。
「これから大変だけど、歩夢の成長は、僕にも刺激になるから」
歩夢は驚いたように顔を上げる。
「えっ、そうなの?」
「そうだよ」
広夢は少しだけいたずらっぽく笑った。
「歩夢に、先を越されるわけにはいかないからね。僕も頑張るよ」
その言葉に、歩夢は少しだけ笑った。
兄に教わる。
けれど、ただ教わるだけではない。
自分が成長すれば、兄にも刺激を与えられる。
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。
シンカー習得は、簡単ではない。
時間もかかる。
失敗もする。
今ある球を守りながら、新しい球を覚えるのは難しい。
それでも、歩夢は前へ進みたいと思った。
城南ヶ丘戦の悔しさを、ただの後悔で終わらせないために。
高速スライダーを、もっと生かせる投手になるために。
そして、東鶴間高校の力になるために。
伯方歩夢のシンカー習得練習が、始まろうとしていた。




