第276話 早田士郎の盗塁練習
高橋雪夜は、早田士郎の練習を見ていた。
バント練習と並行して、盗塁練習も始めることにした。
足を武器にする。
そう決めた以上、走塁だけでは足りない。
セーフティバント。
盗塁。
走塁判断。
そのすべてを磨いてこそ、早田の足は本当の武器になる。
雪夜は一塁ベースの近くで、早田に説明していた。
「盗塁で気をつけることは、投手の動作、牽制をしてくるかどうか、カウントで相手バッテリーが何を投げてくるか……ありとあらゆることを見て、考えないといけないよ」
早田は真剣な顔で聞いていた。
「そういえば……盗塁練習をあまりしていなかったです」
早田は中学時代も、試合に出た回数が多くなかった。
塁に出る機会も、そこまで多くなかった。
そもそも、盗塁をする前にヒットを打てていなかった。
高校に入学してからも同じだった。
試合に出た回数は少ない。
塁に出た回数も少ない。
足が速い。
それは確かだった。
だが、その足を試合で使う経験が、早田には圧倒的に足りなかった。
雪夜は静かに続ける。
「バント練習をして、セーフティバントが成功したとする」
「はい」
「そこで盗塁ができるか、できないかで……相手バッテリーがどういう攻め方をするかが変わると思う」
「攻め方……ですか」
「うん」
雪夜は一塁ベースを指差す。
「足が速くても、最初から盗塁が上手くないと思われたら、警戒する可能性は減ると思う」
早田は少し考える。
「それは……いいことではないのでしょうか」
「まあ、警戒されなければ、リードを広げたり、スタートを切りやすくなったりするかもしれない」
雪夜は頷きつつ、すぐに言葉を続けた。
「でも、警戒された中で盗塁を成功させると……相手にダメージがくるよ」
「ダメージ……ですか」
「そう」
雪夜は捕手らしい視点で説明する。
「足を警戒されると、バッテリーは盗塁されないように配球を考える。クイックを速くしたり、外しやすい球を選んだり、捕手が投げやすい球を要求したりする」
早田は少し目を丸くした。
「そうなったら、打者は打ちやすいボールが来る可能性が上がるからね」
「なんか……難しくなってきました」
早田が素直に言うと、雪夜は小さく笑った。
「まあ、全部を一気に覚える必要はないよ」
そして、早田を見る。
「大事なのは、いかに盗塁を成功させるか。相手にプレッシャーをかけられるか。そこも重視されるから」
「とりあえず、相手を見るってことですか」
「そういうことになるかな」
雪夜は一塁ベースへ向かった。
「まあ、僕は足が速くないけど、とりあえず見本を見せるね」
投手は天宮真十郎。
捕手には白石広志に入ってもらった。
雪夜は一塁ベースに立ち、リードを取る。
真十郎はマウンド上から雪夜を見た。
そして、とりあえず高めのストレートを投げるつもりで構える。
雪夜はじっと真十郎を見ていた。
足は速くない。
だが、真十郎とは何度もバッテリーを組んでいる。
投球に入る時の動作。
間の取り方。
わずかな癖。
雪夜はそれを知っていた。
真十郎が投球モーションに入った瞬間、雪夜はスタートを切った。
広志はすぐに捕球し、二塁へ送球する。
送球は悪くなかった。
だが、雪夜は滑り込む。
判定は――。
「セーフ!」
際どい判定だったが、雪夜は盗塁を成功させていた。
早田は驚いたように雪夜を見る。
「キャプテン……足が速くないのに、盗塁を成功させるなんて……」
雪夜は二塁ベースから立ち上がり、苦笑した。
「まあ、真十郎とバッテリーを組んでいるからね」
そして、一塁へ戻りながら言う。
「癖は誰にでもあるから、そこを狙って盗塁を仕掛けた……ってことになるかな」
「癖……」
早田は真十郎を見る。
ただ速く走るだけではない。
見る。
考える。
判断する。
そこまで含めて盗塁なのだと、早田は少しずつ理解し始めていた。
「……足が速いだけだと、成功率は下がるのでしょうか」
早田が尋ねると、雪夜は少し考えてから答えた。
「うーん……それだけだと成功率は下がると思う」
そして、続ける。
「でも、足が速いのは大きな武器だよ。だからこそ、相手バッテリーを観察して、仕掛けるタイミングを見つけることが大事になる」
「なるほど……」
「じゃあ、今度は早田がやってみよう」
「はい」
早田は一塁ベースに立った。
まずはリードを取る。
真十郎はマウンドから早田を見る。
そして、ストレートを投げるような動きを見せた。
早田はスタートを切ろうとする。
だが、その瞬間、真十郎は一塁へ牽制球を投げた。
「えっ――」
早田は反応が遅れた。
一塁手がボールを受け、すぐにタッチする。
アウト。
早田は一塁ベース付近で固まった。
雪夜は頷く。
「そう。牽制球も来るから、そこも警戒しないといけないよ」
早田は苦笑するしかなかった。
「難しいですね……ご指導、お願いします」
「うん。まずは慣れていこう」
二回目。
早田は再び一塁に立った。
今度は牽制を警戒しながら、リードを取る。
真十郎は早田を見る。
今度は牽制球を投げなかった。
高めのストレート。
投球モーションに入った瞬間、早田はスタートを切った。
速い。
やはり、早田の足は武器だった。
広志はすぐに二塁へ送球する。
送球も悪くない。
早田は滑り込む。
判定は――。
「セーフ!」
際どい判定だった。
だが、早田は盗塁を成功させた。
早田は二塁ベース上で息を吐いた。
「足が速くても、ぎりぎりの成功でした」
雪夜は一塁側から声をかける。
「まあ、すぐに相手バッテリーを見抜くのは難しいからね」
そして、続ける。
「これを、試合ごとに見て、観察して、判断して、盗塁を仕掛けるかどうか決めることになるよ」
「なるほど……勉強になります」
早田は真剣に頷いた。
その後も、盗塁練習は続いた。
真十郎が牽制を入れる。
早田が戻る。
時には戻り遅れてアウトになる。
投球モーションを見てスタートを切る。
広志が二塁へ投げる。
セーフになることもあれば、アウトになることもある。
盗塁は、足の速さだけで決まるものではなかった。
スタート。
リード。
戻る判断。
投手の癖。
捕手の送球。
カウント。
相手が何を警戒しているか。
そのすべてが絡んでいた。
早田は何度も失敗した。
それでも、少しずつ何かを掴もうとしていた。
十回挑戦して、成功は五回。
半分は成功した。
だが、半分は失敗した。
足が速い早田でも、すべて成功するわけではなかった。
早田は二塁ベースから戻りながら、息を吐いた。
「全部成功するのは、まだ難しいですね」
雪夜は頷いた。
「うん。でも、最初から五回成功できたなら悪くないよ」
「そうなんですか?」
「もちろん。ここから成功率を上げていけばいい」
雪夜は早田を見る。
「大事なのは、失敗した理由を考えることだよ。スタートが遅れたのか。牽制に引っかかったのか。リードが小さすぎたのか。広志の送球がよかったのか。そこを一つずつ見ていけば、盗塁は上手くなる」
早田は大きく頷いた。
「はい」
足が速いだけでは足りない。
それを今日、早田は思い知った。
けれど、同時に思った。
足が速いからこそ、盗塁を武器にできる可能性がある。
セーフティバントで出塁し、盗塁で二塁へ進む。
相手バッテリーにプレッシャーをかける。
打者を助ける。
チームの攻撃を広げる。
そんな選手になれたら、自分にも東鶴間での役割ができるかもしれない。
早田士郎の盗塁練習は、まだ始まったばかりだった。
それでも、早田の中で、自分の足をどう使うのかという道が、少しずつ見え始めていた。




