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第275話 早田士郎のバント練習

 こうして、高橋雪夜は早田士郎の練習を見ることになった。


 まず取り組むことになったのは、バント練習だった。


 グラウンドの一角。


 早田はバットを持ち、雪夜の説明を聞いていた。


「いいかい、早田」


 雪夜は落ち着いた声で言う。


「バントは、ただすればいいものではないよ」


「ただすればいいものじゃない……ですか」


「うん。ボールに当てる技術、どこに転がすか、相手が警戒しているかどうか、状況を見て判断するんだ」


 早田は少し困ったようにバットを見る。


「……なんか、バントって難しいですね」


 雪夜は小さく頷いた。


「そうだよ。バント一つでも、いろいろな戦術がある」


 そして、指を折るように説明していく。


「送りバント、セーフティバント、スクイズ。試合では、ありとあらゆる状況でバントをすることになる」


 早田は真剣に聞いていた。


「バントが上手くなると、それだけ武器が増えることになる」


「武器……」


 早田はその言葉を繰り返した。


「それに、俺の足を使った戦術を見つけるってことですか」


「そうだね」


 雪夜は頷く。


「早田は右打ちだから、セーフティバントをしたとする。バントしたら、すぐに一塁へ走れる」


 雪夜は一塁方向を見る。


「後は、守備側が警戒しているか、していないか。そこで成功率が変わるよ」


「なるほど……」


 早田は少しずつ理解していく。


「セーフティバントを成功させるには、警戒されないようにする……ということですね」


「そう」


 雪夜は穏やかに言う。


「それと、バントが上手くなれば、送りバントも成功しやすくなる。つまり、チームのためにできることも増える」


「チームのために……」


「うん。だから、武器が増えるってことだよ」


 早田は少しだけ表情を引き締めた。


「確かに、武器が増えるのはありがたいです」


 足しかない。


 そう思っていた早田にとって、雪夜の言葉は少し違う方向を見せてくれていた。


 足を速くするだけではない。


 足を使うための技術を身につける。


 そうすれば、自分にもできることが増えるかもしれない。


 雪夜はバットを持った。


「じゃあ……見本を見せるから」


 早田は少し後ろに下がる。


 投手役の部員が軽く球を投げる。


 雪夜は構え、バットを出した。


 ボールがバットに当たる。


 打球は三塁線ぎりぎりへ転がり、ライン際で止まった。


「……え」


 早田は思わず声を漏らした。


 雪夜は次の球もバントする。


 今度は一塁線ぎりぎり。


 またライン際に転がし、絶妙なところで止めた。


 三球目。


 四球目。


 五球目。


 雪夜は淡々とバントを続けた。


 そして、十球。


 十回すべて、狙った場所へ転がしてみせた。


 早田は呆然としていた。


「キャプテン……すごいですね」


 雪夜は少しだけ苦笑する。


「まあ……僕にはホームランを連発できるパワーはないし、毎回ヒットを打てる技術もないからね」


 そして、バットを早田に渡す。


「だから、バント練習をしてきた……ってことになるかな」


「それでも、十回連続でバントを成功させるなんて……俺にはできないですよ」


「そうだね」


 雪夜は否定しなかった。


「難しいと思う。でも、何事も練習をしないと、できるようにはならないから」


 雪夜は早田を見る。


「練習してみよう」


「はい」


 早田はバットを握り直した。


 投手役の部員が球を投げる。


 早田はバントの構えをする。


 だが、最初の球は強く当たりすぎて、投手の正面へ転がった。


 二球目はファウル。


 三球目は空振りに近い形で、バットの先にかすっただけだった。


 四球目で、ようやくフェアゾーンに転がる。


 だが、雪夜のようにライン際へ止まるわけではない。


 守備側からすれば、簡単に処理できる打球だった。


 早田は何度もバントを繰り返した。


 十回やって、フェアゾーンに入ったのは半分ほど。


 狙った場所へ転がせたものは、ほとんどなかった。


 早田は息を吐いた。


「バントって……本当に難しいですね」


 その声には、少し悔しさが混じっていた。


 雪夜は頷く。


「まあ……見ている人は簡単に思うけど、実際は難しいよ」


 そして、早田の打球が転がった場所を見る。


「だから、練習する価値があると、僕は思っているよ」


「練習する価値……」


「うん。誰でも簡単にできることなら、武器にはなりにくい。でも、難しいことをできるようになれば、それはちゃんと武器になる」


 早田はその言葉を聞いて、もう一度バットを握った。


 できない。


 でも、できないからこそ、できるようになれば武器になる。


 そう思うと、少しだけ気持ちが前に向いた。


「そうですね……」


 早田は雪夜へ頭を下げた。


「引き続きご指導、お願いします」


 雪夜は優しく笑った。


「うん、喜んで」


 それから早田は、何度もバント練習を繰り返した。


 最初はフェアゾーンに入れるだけでも苦労した。


 強く当たりすぎる。


 弱すぎて前に転がらない。


 ファウルになる。


 空振りする。


 それでも、雪夜は一つずつ修正点を伝えた。


「バットを引きすぎない」


「勢いを殺す時は、手首だけじゃなくて身体全体で受ける」


「最初からライン際を狙いすぎなくていい。まずは転がす場所を安定させよう」


 早田は頷きながら、何度も繰り返した。


 すぐに上手くなるわけではなかった。


 高橋雪夜のように、毎回狙った場所へ転がせるわけでもなかった。


 それでも、練習を始めた時よりは少しだけ形になっていた。


 バントは難しい。


 だが、身につければ自分の足を活かせる。


 早田士郎は、そのことを少しずつ実感していた。


 足が速いだけの選手ではなく、足を使って相手を揺さぶれる選手になるために。


 早田のバント練習は、まだ始まったばかりだった。

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