第274話 早田士郎の一歩
悩みに悩んだ早田士郎は、キャプテンである高橋雪夜に相談することにした。
練習後。
グラウンドの隅で、早田は雪夜に自分の悩みを話した。
自分には足しかないこと。
打撃力があるわけではないこと。
肩が強いわけでもなく、守備にも自信がないこと。
そして、周りの仲間たちと比べて、自分だけが目立たない選手に思えてしまうこと。
雪夜は、早田の話を最後まで黙って聞いていた。
そして、静かに頷く。
「……なるほど。だから最近、浮かない顔をしていたのか」
早田は少しだけ目を伏せた。
「……はい」
言葉にしてしまうと、自分の弱さを認めているようで情けなかった。
それでも、もう隠していても仕方ないと思った。
「俺は打撃力もないし、肩も強いわけではないです。守備もよくないから、二塁と外野を守れるって入部の時に言ったんですけど……結局、外野一本にしました」
早田は拳を握る。
「足が速い以外は、取り柄がないから……」
雪夜は早田の言葉を否定しなかった。
ただ、少しだけ考えるように空を見た。
「確かに、人にはそれぞれ悩みがあるからね」
そして、自分の右肩に少しだけ触れる。
「僕も、捕手なのに肩が弱いとかね」
早田はすぐに顔を上げた。
「でも、キャプテンは守備能力と捕手能力がすごいし、打撃力もそれなりにあるじゃないですか」
その声には、少しだけ焦りが混じっていた。
「俺には、足しかないんですよ」
雪夜は、早田をまっすぐ見る。
「うーん……だから走塁練習ばかりしていたのか」
「はい」
早田は頷いた。
「足しかないので、さらに走力を伸ばそうと思って……」
走る。
速くなる。
それしか、自分にできることはないと思っていた。
だから、早田は走塁練習ばかりしていた。
けれど、それだけでは不安だった。
どれだけ走っても、試合に出られる自分の姿が見えなかった。
雪夜は少し沈黙してから、声をかけた。
「そうか……なあ、早田」
「なんでしょうか、キャプテン」
「足の速さを生かす練習をしたらいいんじゃないかな」
早田は、その言葉をゆっくり繰り返した。
「足の速さを生かす練習……」
「そう」
雪夜は頷く。
「セーフティバント、盗塁、走塁。どれも、足が速いからできる攻撃だと思うよ」
「はい……だから、走塁練習を……」
「そうじゃなくて」
雪夜は優しく遮った。
「走塁だけじゃなくて、バント練習をしたり、盗塁のスタートを練習したり、投手の癖を見る練習をしたり……足を使うための練習を増やしてみるのはどうかな」
早田は目を瞬かせた。
「他の練習……ですか?」
「うん」
雪夜は静かに続ける。
「早田には、足が速いという武器と才能があるじゃないか」
「才能……ですか……」
早田は、自分にその言葉が向けられたことに驚いていた。
才能。
そんな大げさなものが、自分にあるとは思っていなかった。
足が速い。
ただ、それだけだと思っていた。
けれど、雪夜は違う見方をしていた。
「そう。だから、足を生かした攻撃を増やす」
雪夜は早田の目を見て言う。
「そう考えてみるのはどうかな」
早田は少し迷った。
そして、小さく言う。
「でも、高柳先輩と六条先輩も、足が速いですよ」
龍二郎は何でもできる。
遊人も守備範囲が広く、足もある。
自分だけが特別に速いわけではない。
早田はそう思っていた。
だが、雪夜は首を横に振った。
「他者と自分を比べるものではないよ」
その言葉は、静かだった。
けれど、早田の胸に残った。
「僕だって、肩が弱い。捕手としては致命的だと思ったこともある」
雪夜は自分のミットを見る。
「だから、それ以外のことを高めてみたんだよ。配球、リード、読み、守備、打撃。肩が弱いなら、他で補うしかなかった」
「……キャプテン……」
「早田も同じだと思う」
雪夜は穏やかに言った。
「足が速いなら、その足をどう使うかを考えればいい。足だけしかないんじゃなくて、足があるからできることを増やすんだ」
早田は、雪夜の言葉を黙って聞いていた。
足しかない。
そう思っていた。
だが、足があるからできること。
そう考えると、少しだけ見え方が変わった気がした。
雪夜は続ける。
「僕が教えられるのは、バントと盗塁練習ぐらいだけど……それなら見てあげられる」
そして、早田へ尋ねた。
「どうかな?」
早田は、少しだけ下を向いた。
胸の中で、迷いがあった。
自分にできるのか。
本当に変われるのか。
足を生かした攻撃なんて、そんなに簡単に身につくのか。
不安はある。
けれど、このまま何もしなければ、何も変わらない。
(……ここで変わろうとしなかったら、何も変わらない……)
早田は顔を上げた。
(なら……)
そして、雪夜に頭を下げた。
「お願いします」
その声は、先ほどよりも少しだけ強かった。
雪夜は小さく笑う。
「よし。なら練習を見てみるよ」
「はい」
「明日から、バントと盗塁練習をしてみよう」
「はい、お願いします!」
早田は、はっきりと返事をした。
足しかない。
そう思っていた自分が、すぐに変われるわけではない。
打撃力が急に上がるわけでもない。
守備が一日で上手くなるわけでもない。
それでも、自分の足を武器にするための道はある。
雪夜は、それを示してくれた。
早田士郎は、ほんの少しだけ前を向けた気がした。
まだ目立つ選手ではない。
まだ試合に出られるかも分からない。
それでも、自分にできることを増やすために。
足が速いだけの選手ではなく、足で相手を揺さぶれる選手になるために。
早田士郎の新しい練習が、始まろうとしていた。




