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第272話 京次郎との別れ

 一ノ瀬京次郎との電話から、数日が過ぎた。


 京次郎が地元に帰る日になった。


 高橋雪夜は、その見送りに来ていた。


 冬の空気は冷たく、吐く息が白くなる。


 人の流れの中で、雪夜は京次郎の姿を見つけた。


 京次郎も雪夜に気づき、少しだけ笑った。


「雪夜……来てくれてありがとう」


 その声は、いつものように落ち着いていた。


 だが、少しだけ嬉しそうでもあった。


 雪夜は静かに首を横に振る。


「うん……」


 そして、少しだけ目を伏せた。


「中学を卒業した後……京次郎が地元に帰る時、見送りに行かなかったこと……後悔していたから」


 あの時。


 中学の卒業式。


 京次郎は地元へ帰ることになった。


 親の転勤でこちらに来て、そしてまた地元へ戻る。


 それは仕方のないことだった。


 それでも、雪夜にとっては別れだった。


 ちゃんと見送れなかった別れだった。


 京次郎は、雪夜の言葉を聞いて静かに頷く。


「……そうじゃな……」


 そして、少しだけ遠くを見る。


「ワシも、雪夜に別れを言えなかったことが……後悔だったからのう」


 二人の間に、静かな時間が流れた。


 責める言葉はなかった。


 恨む言葉もなかった。


 ただ、あの時できなかったことを、今になってようやく言葉にしていた。


 雪夜は京次郎を見る。


「京次郎……会えてよかったよ」


 京次郎は穏やかに笑った。


「ワシも、雪夜に会いに行って……よかったと思っているぞ」


 東鶴間高校へ行ったこと。


 雪夜に会えたこと。


 もう一度、球を受けてもらえたこと。


 高柳龍二郎と勝負できたこと。


 そのすべてが、京次郎にとって大切な時間になっていた。


 雪夜も、小さく頷く。


「うん……こうして、見送りに来れたから」


「そうじゃな……」


 京次郎は少しだけ目を細めた。


「あの時と違って、雪夜が来てくれた……それだけで、嬉しいぞ」


 雪夜は何も言えなかった。


 その言葉が、胸に深く残った。


 あの時は、見送れなかった。


 言えなかった。


 向き合えなかった。


 けれど、今は違う。


 雪夜はここに来た。


 京次郎を見送るために。


 昔の後悔を、少しでも前へ進めるために。


 やがて、京次郎は時計を見る。


 雪夜も、その様子を見て言った。


「……そろそろかな……」


「ああ……帰る時間になりそうじゃな」


 別れの時間が近づいていた。


 また離れる。


 京次郎は地元へ帰る。


 雪夜は東鶴間に残る。


 それぞれの場所で、それぞれの野球を続ける。


 雪夜は、ゆっくりと言った。


「……元気でね……京次郎」


 京次郎も、静かに返す。


「……ああ……雪夜もな」


 二人はしばらく向かい合っていた。


 そして、どちらからともなく歩み寄った。


 雪夜と京次郎は、軽く抱き合った。


 中学時代にできなかった別れ。


 卒業式の日に、言えなかった言葉。


 そのすべてを埋めることはできない。


 けれど、今なら少しだけ、あの時の自分たちを許せる気がした。


 京次郎は雪夜の肩から手を離す。


 そして、真っ直ぐに雪夜を見た。


「全国大会で、待っているから」


 その言葉に、雪夜は息を呑んだ。


 全国大会。


 京次郎がいる場所。


 佐藤秋一郎が立った場所。


 鈴木草助や桜川守が戦った場所。


 今の東鶴間には、まだ遠い場所。


 それでも、雪夜は頷いた。


「うん……全国に行けるように、頑張るから」


 京次郎は満足そうに笑った。


「楽しみにしているぞ」


 そして、京次郎は荷物を持ち直した。


 雪夜は、その背中を見送る。


 今度は、目を逸らさなかった。


 今度は、ちゃんと見送った。


 一ノ瀬京次郎は、地元へ帰っていった。


 その姿が見えなくなっても、雪夜はしばらくその場に立っていた。


「……京次郎……」


 小さく、名前を呟く。


 寂しさはあった。


 けれど、昔のような痛みだけではなかった。


 京次郎との再会。


 東鶴間での勝負。


 電話で交わした本音。


 そして、今日の見送り。


 それらは、あの頃から止まっていた時間を、少しだけ動かしたのかもしれない。


 雪夜は空を見上げた。


 冬の空は高く、冷たかった。


 それでも、胸の奥には小さな温かさが残っていた。


 また、会える。


 今度は、全国の舞台で。


 そう思いながら、雪夜はゆっくりと歩き出した。

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