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第271話 京次郎からの電話

 一ノ瀬京次郎が帰り、東鶴間高校野球部の面々は練習を終え、それぞれ帰路についた。


 高橋雪夜も自宅へ帰った。


 風呂に入り、夕飯を食べ、そして自室の机に向かう。


 いつものように、日記を書くためだった。


 机の上にノートを開き、ペンを持つ。


 今日あったことを思い返す。


 一ノ瀬京次郎が東鶴間高校に来たこと。


 久しぶりに京次郎と話したこと。


 京次郎の球を受けたこと。


 そして、高柳龍二郎との十球勝負。


 雪夜はペンを止めた。


(……京次郎のスライダー……よりすごくなっていたなぁ……)


 中学時代から、京次郎のスライダーはすごかった。


 だが、今日受けた球は、あの頃とは違っていた。


 高速スライダー。


 スラーブ。


 縦のスライダー。


 どれも鋭く、速く、変化量もあった。


 世代ナンバー2。


 スライダーマン。


 そう呼ばれるだけの投手になっていた。


 雪夜は、日記にそのことを書こうとした。


 その時だった。


 携帯電話が鳴った。


 雪夜は机の上の携帯電話を手に取り、画面を見る。


 表示されていた名前は、一ノ瀬京次郎。


 雪夜は少し驚いたあと、通話ボタンを押した。


「もしもし」


 電話の向こうから、聞き慣れた声が返ってくる。


「もしもし……ワシじゃ」


「分かっているよ、京次郎」


 雪夜がそう言うと、京次郎は少しだけ笑ったようだった。


「今日はありがとう。勝負につきあってくれて……」


「こちらこそ」


 雪夜は椅子に座り直す。


「京次郎の球を捕れたこと、いい経験をさせてもらったよ」


「それならよかったよ」


 京次郎の声は、どこか穏やかだった。


 だが、雪夜には分かった。


 京次郎は、ただ礼を言うためだけに電話をしてきたわけではない。


「それで、話があるんだろう」


 雪夜がそう言うと、電話の向こうで少し間が空いた。


「そうじゃった……」


 京次郎は小さく息を吐く。


「雪夜、二人で話すのも、久しぶりになったのう」


「そうだね……」


 雪夜は窓の外を見る。


 夜の空気は冷たく、部屋の中だけが静かだった。


「中学を卒業してからは……みんなと会わなくなったからね」


 佐藤秋一郎。


 鈴木草助。


 一ノ瀬京次郎。


 そして、高橋雪夜。


 かつて同じチームにいた四人は、それぞれ違う道へ進んだ。


 秋一郎は東栄高校へ。


 草助は春日野学園高校へ。


 京次郎は地元の強豪校、呉稲見高校へ。


 雪夜は、一度野球から離れた。


 それ以降、四人が同じ場所に集まることはなかった。


 京次郎は静かに言う。


「そうじゃな……卒業してから、電話の一つもしなかったこと……申し訳なかった」


「いいんだよ」


 雪夜はすぐに答えた。


「僕も……電話ができなかったから」


「雪夜……」


「だから、京次郎だけが悪いわけじゃないよ」


 雪夜の言葉に、京次郎は少し黙った。


 その沈黙には、簡単に言葉にできない感情があった。


 やがて、京次郎が口を開く。


「なあ、雪夜……」


「なんだい、京次郎」


「もし、ワシと雪夜が同じ高校に通えていたなら……」


 京次郎の声が、少しだけ揺れた。


「秋一郎に勝てたのかもしれんな」


 雪夜はすぐには答えられなかった。


 京次郎と同じ高校。


 同じチーム。


 もう一度バッテリーを組む未来。


 そんなものがあったのかもしれない。


 けれど、現実にはそうならなかった。


 雪夜は静かに言う。


「どうかな……」


 そして、秋一郎の姿を思い浮かべる。


 全国大会決勝で完封し、東栄高校を頂点へ導いた本物の天才。


「秋一郎は別格だし、東栄高校は強豪校だから、簡単には勝てないと思うよ」


「それでも」


 京次郎は、雪夜の言葉を遮るように言った。


「雪夜とバッテリーを組めていたなら……そう思ってしまうのじゃよ」


「……京次郎……」


 その言葉には、後悔がにじんでいた。


 京次郎は、雪夜と離れたことを後悔していた。


 親の転勤で地元に帰ることになった。


 それは京次郎のせいではない。


 京次郎が望んで雪夜を置いていったわけでもない。


 それでも、雪夜を傷つけたことに変わりはない。


 京次郎は、そう思っていた。


 雪夜は少しだけ目を閉じた。


 そして、ゆっくりと言う。


「……あの時のことなら、もう……大丈夫だから」


 京次郎は何も言わなかった。


 雪夜は続ける。


「京次郎が悪いわけじゃない。それは分かっているから」


「雪夜……」


 京次郎の声が、さらに小さくなる。


「あの時の言葉……もう一度だけ、言わせてほしい……」


「あの時の?」


 雪夜が聞き返す。


 京次郎は、静かに息を吸った。


 そして、言った。


「ワシは……雪夜と同じ高校に行きたかった」


 その言葉に、雪夜は胸の奥が少し熱くなった。


 卒業式の日。


 別れの日。


 京次郎が地元へ帰ることを告げた日。


 あの日、京次郎も同じことを思っていたのかもしれない。


 自分だけが寂しかったわけではなかった。


 自分だけが置いていかれたわけではなかった。


 京次郎もまた、離れることを悲しんでいた。


「……京次郎……」


「……すまんのう」


 京次郎は、少しだけ笑うように言った。


「しんみりさせて」


 雪夜は首を横に振った。


 電話越しだから、京次郎には見えない。


 それでも、自然とそうしていた。


「……いいんだよ」


 そして、穏やかに言う。


「僕は……京次郎が元気そうで、よかったよ」


「……雪夜……」


 京次郎は、それ以上何を言えばいいのか分からなくなっていた。


 謝りたいことはある。


 後悔していることもある。


 けれど、雪夜は責めなかった。


 恨んでいないと言った。


 元気そうでよかったと、そう言ってくれた。


 その優しさが、京次郎には少し痛かった。


 雪夜は、空気を少し変えるように尋ねる。


「……いつ、地元に帰るんだい」


「ああ、そうじゃった……」


 京次郎は思い出したように答える。


「年が明ける前に、帰ることになったよ」


「……そうなんだ」


 雪夜は少し黙った。


 そして、はっきりと言った。


「今度こそ、見送りに行くから」


 京次郎は息を呑んだ。


「雪夜……」


「卒業式の時は、ちゃんと見送れなかったから」


 雪夜は静かに続ける。


「今度は、ちゃんと見送りたいんだ」


 電話の向こうで、京次郎がしばらく黙っていた。


 やがて、小さな声が返ってくる。


「……ありがとう、雪夜」


「うん」


 その後、二人は少しだけ雑談をした。


 呉稲見高校のこと。


 東鶴間高校のこと。


 今日の十球勝負のこと。


 高柳龍二郎の打撃のこと。


 そして、京次郎のスライダーを捕った雪夜のことを、京次郎が何度も感心して話した。


 雪夜はそのたびに、練習すれば捕れるよ、と返した。


 京次郎は電話の向こうで呆れたように笑っていた。


 久しぶりに話す二人の会話は、ぎこちなく始まった。


 だが、少しずつ昔のような空気に近づいていった。


 完全に戻ったわけではない。


 離れていた時間は、確かにある。


 それでも、二人の間にあったものは、まだ消えていなかった。


 高橋雪夜と一ノ瀬京次郎。


 かつてバッテリーを組んだ二人は、冬の夜に少しだけ、失った時間を取り戻していた。

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