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第270話 一ノ瀬京次郎が残したもの

 一ノ瀬京次郎対高柳龍二郎。


 十球勝負は終わった。


 京次郎は東鶴間高校を後にし、グラウンドには再び冬の静けさが戻っていた。


 だが、東鶴間高校野球部の面々は、しばらく動けずにいた。


 ただ呆然としていた。


 目の前で見たものが、あまりにも大きかったからだ。


 全国ベスト4。


 世代ナンバー2。


 スライダーマン、一ノ瀬京次郎。


 その球は、テレビで見るものとはまるで違っていた。


 145キロを軽く超えるストレート。


 鋭く曲がる高速スライダー。


 横と斜めの変化を持つスラーブ。


 そして、速さと落差を兼ね備えた縦のスライダー。


 全国大会準決勝で、佐藤秋一郎と投げ合った投手。


 その実力を、東鶴間の選手たちは間近で見せつけられた。


 天宮真十郎は、京次郎が立っていたマウンドを見つめていた。


(……すごかった)


 同じ投手だからこそ、分かることがある。


 球の速さ。


 変化球の鋭さ。


 投げる時の姿勢。


 打者へ向かっていく迫力。


 そのすべてが、自分よりも上に見えた。


 悔しくないわけではない。


 だが、その悔しさは、ただ落ち込むためのものではなかった。


(僕も……今より強くならないと)


 真十郎は、拳を握った。


 自分には自分の球がある。


 そして、自分の球を受けてくれる雪夜がいる。


 ならば、もっと磨けばいい。


 もっと強くなればいい。


 東鶴間のエースとして、胸を張れる投手になるために。


 新井元気も、京次郎が去っていった方向を見つめていた。


 中学時代のチームメイトだった京次郎。


 あの頃からすごい投手だった。


 けれど、今の京次郎は、その頃よりもさらに腕を上げていた。


 全国ベスト4まで進んだ投手。


 世代ナンバー2と呼ばれる存在。


 その球を見て、元気は思った。


(オイラも……打てるようにならないといけないでやんす)


 桐原礼二には、四打席すべて抑えられた。


 全国には、京次郎のような投手もいる。


 このままでは足りない。


 三番打者として、強い投手を打ち崩せる選手にならなければならない。


 元気は、静かにバットを握り直した。


 六条遊人は、少し苦い表情を浮かべていた。


 京次郎の球は、あまりにもすごかった。


 自分が練習している粘り打ち。


 カット打ち。


 それで、あの球に対応できるのか。


 高速スライダーをカットできるのか。


 縦のスライダーを見極められるのか。


 スラーブに手を出さず、ストレートに遅れずついていけるのか。


 考えれば考えるほど、分からなくなった。


 それほどまでに、実力差があった。


(……でも、分からないままじゃ駄目だ)


 遊人は息を吐いた。


 届かないから諦めるのではない。


 届かないからこそ、考える。


 どうすれば粘れるのか。


 どうすれば一球でも多く投げさせられるのか。


 今の自分にできることを増やすしかなかった。


 一年生たちも、それぞれ衝撃を受けていた。


 浮田総二は、京次郎の球を見て、打者としての自分の未熟さを感じていた。


 白石広志は、投手としても野手としても、もっと幅を広げなければならないと思った。


 竹田栄司は、あの球を打つには打撃だけでなく、試合に出るための守備も必要だと改めて感じた。


 夏目海は、同じ投手として、京次郎の球の迫力に圧倒されていた。


 伯方歩夢は、あのレベルの投手になれるのだろうかと不安になりながらも、目を逸らすことはできなかった。


 早田士郎は、自分の足だけでは全国レベルの試合に立てないことを痛感していた。


 高柳冬美も、マネージャーとして、その場の空気を忘れられなかった。


 まだまだ、自分たちの知らない世界がある。


 一年生たちは、そう思っていた。


 一ノ瀬京次郎の訪問。


 そして、高柳龍二郎との十球勝負。


 それは、東鶴間高校野球部の面々に確かな影響を与えていた。


 やがて、九条咲が手を叩いた。


「みんな、練習を再開するぞ」


 その声に、部員たちは我に返った。


「はいっ!」


 返事は、先ほどよりも力強かった。


 そして、東鶴間高校野球部は練習を再開した。


 真十郎は、投球練習へ向かった。


 元気は、打撃練習を始めた。


 遊人は、粘り打ちと見極めの練習に戻った。


 一年生たちも、それぞれの課題へ向き合った。


 誰も、京次郎の球を忘れていなかった。


 あの球を打つために。


 あの球に負けないために。


 あのレベルの相手と戦うために。


 もっと実力をつけなければならない。


 その思いが、練習の空気を変えていた。


 そして、高柳龍二郎もまた、黙々とバットを振っていた。


 京次郎の球を打った。


 十球勝負で三本のヒットを放った。


 一本はホームランだった。


 それでも、龍二郎は満足していなかった。


 一ノ瀬京次郎はすごかった。


 あの高速スライダーは、簡単に打てる球ではなかった。


 もっと上に行ける。


 もっと強い打者になれる。


 龍二郎は、そう思っていた。


 今の自分より、さらに上へ。


 全国の投手たちを仕留められる打者になるために。


 龍二郎は、再びバットを振り続けた。


 その光景を、高橋雪夜は見ていた。


 京次郎の球。


 龍二郎の打撃。


 そして、刺激を受けて練習に向かう仲間たち。


 雪夜はミットを握りしめた。


 来年、捕手が入部しなければ、自分が正捕手になる。


 その覚悟は、すでにあった。


 だが、今日の京次郎の球を受け、龍二郎との勝負に立ち会い、雪夜の中でその覚悟はさらに強くなっていた。


 この仲間たちを勝たせたい。


 真十郎の球を受けたい。


 龍二郎の打撃を生かしたい。


 元気を、遊人を、一年生たちを、試合の中で支えたい。


 城南ヶ丘に勝つために。


 桜桜花に勝つために。


 そして、その先にある全国の世界へ進むために。


 雪夜は静かにミットを構えた。


 正捕手として。


 キャプテンとして。


 東鶴間高校野球部を、もっと強くするために。


 一ノ瀬京次郎が残した刺激は、冬のグラウンドに確かに残っていた。


 東鶴間高校野球部は、その刺激を力に変えながら、今日も練習を続けていく。

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