第260話 桐原礼里の本音
ドラフト会議が終わり、東鶴間高校野球部の面々はそれぞれ帰路についた。
高橋雪夜も自宅へ帰り、風呂に入り、夕飯を食べた。
そして夜。
自室の机に向かい、いつものように日記を書いていた。
今日の出来事。
ドラフト会議。
桐原礼二が、二位指名を受けたこと。
城南ヶ丘学園高校のエース。
準々決勝で東鶴間の前に立ちはだかり、自分たちを七回コールドで破った投手。
そして、桐原礼里の兄。
その礼二が、プロ野球選手になる。
雪夜はペンを止めた。
(礼二さんがプロか……)
不思議な感覚だった。
自分と同じグラウンドに立っていた人。
自分たちと戦った人。
その人が、プロの世界へ進もうとしている。
(なんか……遠い人になったなぁ……)
そう思っていた時だった。
携帯電話が鳴った。
雪夜は机の上に置いていた携帯電話を手に取り、画面を見る。
表示されていた名前は――。
桐原礼里。
雪夜は一瞬、目を疑った。
(なんで……礼里から……)
すぐに出るべきか迷った。
だが、何か理由があるのだろうと思い、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
雪夜が言うと、少し間を置いて声が返ってきた。
「……もしもし、礼里だ」
「……うん、分かっているよ」
「……そうだな……」
会話は、そこで止まった。
電話越しの沈黙。
懐かしいはずなのに、どこかぎこちない空気。
中学時代は、もっと自然に話せていたはずだった。
だが今は、何を話せばいいのか分からなかった。
雪夜は迷った末に、口を開いた。
「……礼二さんが、二位指名されて……おめでとう」
礼里は少しだけ息を呑んだようだった。
「……ありがとう、雪夜……」
それからまた、沈黙が流れた。
二人とも、言葉を探していた。
言いたいことはある。
けれど、どう言えばいいのか分からない。
そんな沈黙だった。
やがて、雪夜が先に言った。
「……この前、会った時……冷たい態度を取って……ごめん」
雪夜と礼里が再会したのは、桐原兄妹が東鶴間高校へ偵察に来た時だった。
あの時、二人の間には中学時代から続く複雑な感情があった。
そして、会話は穏やかなものにはならなかった。
礼里も、小さく息を吐く。
「……私のほうこそ、雪夜に酷いことを言って……悪かった」
あの時、礼里は雪夜に言った。
――私に勝てなかったことを、いまだに根に持っているなんて……小せえ男だなぁ。
その言葉は、雪夜を傷つけた。
だが、雪夜は静かに言った。
「もう、いいんだ……本当のことだから」
「本当は……そんなことを言いたかったんじゃないの」
礼里の声は、少し苦しそうだった。
「本当のこと……?」
雪夜が聞き返す。
礼里は少し黙ってから、ゆっくりと言った。
「あの時……唯と元気の姿を見ていたら……自分が惨めに思えて……雪夜に八つ当たりをしていたの」
雪夜は何も言えなかった。
小山唯。
新井元気。
雪夜は唯が好きだった。
礼里は元気が好きだった。
けれど、元気が選んだのは唯だった。
雪夜も、礼里も、好きな人に想いを伝えることができなかった。
そして、好きだった人同士が恋人になった。
二人は、同じ痛みを抱えていた。
「……仕方なかったんだよ」
雪夜は静かに言った。
「僕だって、唯と元気が仲良くしているところを見ると……礼里の気持ちは分かるよ」
電話の向こうで、礼里が小さく笑った気がした。
けれど、その笑いは明るいものではなかった。
「……悲しいね、雪夜」
「……うん」
「私たち、好きな人に告白もできなかったなんて……ね」
「……うん、そうだね……」
二人の声は、どちらも静かだった。
責める相手など、どこにもいない。
元気が悪いわけでもない。
唯が悪いわけでもない。
ただ、自分たちが言えなかった。
そして、間に合わなかった。
それだけだった。
礼里は、ぽつりと言った。
「私は、元気と唯を見ているのがつらかったから、城南ヶ丘に行ったんだ」
そして、少し間を置く。
「でも……雪夜は強いんだね。元気と唯と同じ学校に行くなんてさ……」
雪夜は首を横に振った。
電話越しだから、礼里には見えない。
それでも、自然とそうしていた。
「強くなんかないよ」
雪夜は机の上の日記を見る。
そこには、今日のドラフトのことが途中まで書かれていた。
「つらかったけど……あの時の僕は、唯を忘れられなかったんだ」
だから、と雪夜は続ける。
「唯と同じ学校に行ったんだ……」
「そうなんだ……」
礼里の声が、少しだけ柔らかくなった。
そして、何かを言いかけるように呼んだ。
「なあ、雪夜……」
「なんだい、礼里……」
電話の向こうで、礼里は黙った。
言葉が出てこない。
言えば、何かが変わってしまう気がした。
でも、言わなければ何も変わらない。
それも分かっていた。
それでも礼里は、最後の一歩を踏み出せなかった。
「……ううん、なんでもないよ」
雪夜は少し不思議に思った。
「それなら、いいけど……」
「じゃあ……そろそろ」
「うん……それじゃあ」
通話はそこで終わった。
携帯電話の画面が暗くなる。
雪夜はしばらく、その画面を見つめていた。
(礼里……最後、何を言いたかったんだろう……)
考えても、答えは出なかった。
一方、礼里もまた、自分の部屋で携帯電話を握ったまま、静かに俯いていた。
言えなかった。
最後まで、言えなかった。
(……言えないよ……)
礼里は唇を噛む。
(言えやしないよ……)
もし、違う未来があったなら。
もし、自分が元気ではなく、雪夜を好きになれていたなら。
もし、雪夜が唯ではなく、自分を見てくれていたなら。
中学時代、あんなふうに張り合うこともなかったのだろうか。
再会した時に、あんな酷い言葉をぶつけることもなかったのだろうか。
お互いに傷つけ合わずにすんだのだろうか。
(雪夜を好きになれていたなら、私たち……いがみ合わなかったのかなぁ……なんて……)
礼里は目を伏せる。
そんなことは、言えなかった。
今さら言っても、どうにもならない。
それでも、その想いは胸の奥に残っていた。
好きな人に告白できなかった二人。
同じ痛みを抱えながら、別々の道を選んだ二人。
雪夜と礼里の夜は、静かに更けていった。




