第252話 雪夜と真衣
東鶴間高校野球部の面々が、部室で全国大会準決勝、春日野学園高校対中月大学付属高校の試合を見ようとしていた頃。
高橋雪夜は一人、グラウンドにいた。
手にはバット。
目の前に投手はいない。
それでも雪夜は、黙々とバットを振っていた。
一度。
また一度。
何度も。
何度も。
鈴木草助のことを忘れるために。
あの声を。
あの言葉を。
あの時の感情を、振り払うために。
雪夜はバットを振り続けていた。
そんな雪夜の近くに、一人の少女が歩いてくる。
夏目真衣だった。
「……雪夜君……」
真衣の声に、雪夜はバットを止めた。
「……真衣さん……」
雪夜は少し驚いたように振り返る。
真衣は雪夜の近くまで来ると、持っていたスポーツドリンクとタオルを差し出した。
「……少し、休んだほうがいいよ」
雪夜は一瞬、何かを言おうとした。
だが、真衣の表情を見て、静かに頷いた。
「……うん、そうするよ……」
雪夜はスポーツドリンクとタオルを受け取った。
二人はグラウンド脇のベンチに座った。
部室の方からは、かすかにテレビの音が聞こえてくる。
春日野学園高校対中月大学付属高校。
鈴木草助と桜川守の試合。
本来なら、雪夜も見ておくべき試合だった。
だが、今の雪夜は、その画面を見ることができなかった。
雪夜はタオルで汗を拭きながら、小さく笑った。
「……情けないよね……」
真衣は雪夜を見る。
「草助を見たくないから、試合を見ないなんて……」
その声には、自分を責める響きがあった。
だが、真衣は首を横に振った。
「そんなことないよ」
雪夜は少しだけ目を伏せる。
真衣は続けた。
「誰にだって……嫌なことはあるから……」
無理に励ますわけではない。
強引に前を向かせるわけでもない。
ただ、雪夜の弱さを否定しなかった。
雪夜は少し沈黙してから、真衣へ尋ねる。
「……真衣さん、試合を見なくてもいいの?」
真衣は静かに答えた。
「今は……雪夜君のそばにいたいから……」
雪夜は驚いたように真衣を見た。
そして、すぐに申し訳なさそうに言う。
「……ごめんね……」
「謝らないで」
真衣は優しく言った。
「私は……好きで雪夜君のそばに来たんだもの」
雪夜は少しだけ黙った。
それから、穏やかに微笑む。
「……ありがとう、真衣さん」
二人の間に、静かな時間が流れた。
グラウンドには風が吹いている。
遠くから聞こえる部室の音。
誰もいないベンチ。
その中で、雪夜はぽつりと口を開いた。
「……あの出来事が、中学で野球をやめるきっかけの一つになったんだ」
真衣は黙って聞いていた。
「……うん……」
「他にも、やめる理由はあったんだ」
雪夜は手元のスポーツドリンクを見つめる。
「でも、草助のあの言葉で……僕の心は折れたんだ」
「……そうなんだ……」
真衣はそれ以上、余計なことを言わなかった。
雪夜が話したい分だけ話せるように、ただ隣にいた。
「野球をやめて、高校生になっても、最初は野球をしなかった」
雪夜は続ける。
「それでいいと思っていたんだ……僕には、居場所がないと思っていたから……」
真衣の胸が、少し痛んだ。
今の雪夜は、東鶴間高校野球部のキャプテンだった。
みんなに頼られ、必要とされている。
だが、入学したばかりの雪夜は、そう思えていなかったのだ。
「だけど……」
雪夜は真衣を見る。
「真衣さんが僕を勧誘してくれたのが……本当は嬉しかったんだ」
「あの時の、勧誘が……」
真衣は目を丸くした。
雪夜は小さく頷く。
「真衣さんが言ってくれた言葉……すごく嬉しかったんだよ」
二人は、あの日のことを思い出していた。
野球部に入ろうとしなかった雪夜。
自分には必要とされる場所などないと思っていた雪夜。
そんな雪夜に、真衣は必死に言った。
――たとえどんなことを言われてきたとしても、私は高橋君が必要なの!
その言葉は、雪夜の中に残っていた。
忘れられない言葉として。
救いのような言葉として。
真衣は当時の自分を思い出し、少し頬を赤くした。
「あの時の私……恥ずかしいことを言ってたんだね」
雪夜はすぐに首を横に振る。
「そんなことないよ」
そして、真っ直ぐに真衣を見た。
「あの時の言葉……すごく嬉しかったから」
真衣は少しだけ照れたように笑う。
「私は……雪夜君にもう一度、野球をしてほしかったから……」
「だから、もう一度野球をしようと思ったんだ」
雪夜は静かに言った。
「真衣さんを信じて、野球をしてみようと思ったんだ」
「雪夜君……」
真衣の声が少し震えた。
雪夜は穏やかに笑う。
「ありがとう、真衣さん……」
そして、心からの言葉を口にした。
「僕を野球部に勧誘してくれて……」
真衣はゆっくりと頷いた。
「うん……」
そして、優しい表情で言う。
「私も、雪夜君が野球をしてくれて……野球部に入ってくれて……嬉しかったよ」
二人はしばらく、何も言わなかった。
言葉にしなくても伝わるものが、そこにはあった。
雪夜にとって、真衣の言葉は救いだった。
真衣にとっても、雪夜が野球部に来てくれたことは、大切な出来事だった。
やがて、雪夜は少し照れくさくなったのか、立ち上がった。
「さて、練習を再開するよ」
真衣はその様子を見て、少しだけ笑った。
「無理はしないでね」
「うん。分かってる」
雪夜は再びバットを握った。
そして、素振りを始める。
一度。
また一度。
先ほどよりも、少しだけ落ち着いた表情で。
鈴木草助のことを完全に忘れられたわけではない。
あの過去が消えたわけでもない。
それでも、雪夜はまたバットを振った。
もう一度、野球をするために。
今度こそ、自分の居場所を守るために。
その姿を、夏目真衣は静かに見守っていた。




