第251話 雪夜と草助の過去
高橋雪夜のいない部室で、新井元気は静かに口を開いた。
春日野学園高校対中月大学付属高校。
その試合が始まろうとしているテレビ画面を背に、元気はいつもの明るさを消していた。
「雪夜と鈴木が出会ったのは、中学一年生の時だったんだ……」
部室の面々は、黙って元気の言葉を聞いていた。
「野球部でチームメイトになった二人は……仲が良かったわけじゃなかった。むしろ、鈴木は雪夜を嫌っていたんだ」
元気は少しだけ視線を落とす。
「肩が弱いのに捕手をしていることを馬鹿にして……そんな鈴木を、雪夜も嫌っていたんだと思う」
肩が弱い。
その言葉に、東鶴間の部員たちは反応した。
雪夜がずっと気にしている弱点。
新キャプテンになった今でも、正捕手になる可能性を考えながら悩んでいること。
それを、鈴木草助は中学時代から突いていたのだ。
「そして、三年生の時だった」
元気は続ける。
「監督の塩じい……塩川大二郎監督が、雪夜を正捕手にしたんだ」
その瞬間、部室の空気が少し変わった。
「でも、その時、鈴木だけが反対したんだ。肩が弱い捕手とはバッテリーを組みたくないって、一人で抗議していたんだよ」
「……そんなことを」
天宮真十郎が小さく呟いた。
「まあ、鈴木は塩じいに怒られていたけどね」
元気は少しだけ苦笑した。
だが、その表情はすぐに沈む。
「それでも、三年生の最後の大会で、オイラたちは全国大会優勝を成し遂げたでやんす」
全国大会優勝。
雪夜、元気、唯、礼里、秋一郎、京次郎、草助。
かつて同じチームにいた者たちが成し遂げた結果。
だが、元気の声に誇らしさだけはなかった。
「だけど、事件は……オイラたち三年生の引退式で起こったんだ」
高柳龍二郎は眉をひそめた。
「なんか……今の話だけを聞くと、その鈴木とやらは性格が良くはなかったんだな」
「まあ……鈴木はプライドがものすごく高いから、肩の弱い雪夜が捕手をしているのが許せなかったのかもしれないでやんす」
元気はそう言ったが、擁護するような口調ではなかった。
天宮が静かに尋ねる。
「新井……その事件とは?」
元気は一度、息を吸った。
「うん……引退式の時、鈴木が暴言を吐いたでやんすよ」
部室が静まり返る。
「確か……」
元気は、言いづらそうに言葉を選んだ。
「肩の弱い捕手とバッテリーを組まなくてすむと思うと、とっても幸せです……って言ってたでやんす」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
六条遊人が、苦い表情を浮かべる。
「なんか……嫌な奴に見えてきたな」
「さすがに言い過ぎだと思った佐藤秋一郎と一ノ瀬京次郎は、鈴木を止めようとしたんだ」
元気はそこで言葉を切った。
「だけど……」
野球部の面々は、固唾を飲んでいた。
元気は静かに続ける。
「雪夜が小さく……うるさい、黙れ……って言ったんだ」
伯方歩夢が目を見開いた。
「あの雪夜さんが……そんなことを……」
普段の雪夜からは、想像できなかった。
優しくて、冷静で、誰かを責めるより先に自分を責めるような人。
その雪夜が、そんな言葉を口にした。
それだけで、どれほど追い詰められていたのかが伝わってきた。
「そして、鈴木が……なんだと、雪夜、てめぇ……って言って、雪夜に殴り掛かったんだ」
「えっ……それで、どうなったの?」
六条が思わず聞く。
「雪夜が応戦して……殴り合いになったんだ」
部室に衝撃が走った。
「雪夜さんが……殴り合いを……」
歩夢は信じられないように呟いた。
元気は頷く。
「だから、佐藤と一ノ瀬が鈴木を止めて、オイラと唯ちゃんと礼里ちゃんが雪夜を止めたんだ」
その時、白石広志が静かに口を開いた。
「あの時の雪夜さん……怖かったです」
竹田栄司も頷く。
「あんな雪夜さん……初めて見たっす」
浮田総二も、信じられないという顔をしていた。
「ワシらには優しい雪夜先輩が……と思ったぞ」
天宮は重く息を吐く。
「そんなことになったのか……」
小山唯は、膝の上で手を握っていた。
そして、震える声で言う。
「私も……雪夜がそこまで追い詰められていたなんて……知らなかったの」
唯の目には、当時を思い出すような悲しみがあった。
「だから、私はあの時……悲しくて泣いてしまったの」
元気は悔しそうに拳を握った。
「唯ちゃんを泣かせるなんて……鈴木を許せなかったでやんすよ」
その言葉を聞いて、高柳龍二郎と高柳冬美は、去年の冬のことを思い出していた。
雪夜の失恋話を聞いた時のこと。
あの時、雪夜は小山唯に失恋していた。
幼馴染であり、大切な存在だった唯。
その唯が元気と恋人になったことを、雪夜は受け止めようとしていた。
だが、受け止めきれていたわけではなかったのかもしれない。
肩の弱さを否定される苦しみ。
正捕手として認められない悔しさ。
失恋の痛み。
桐原礼里に勝ち逃げされた屈辱。
そして、引退式での暴言。
あの時の雪夜は、確かに追い詰められていたのかもしれない。
龍二郎と冬美は、そう思った。
元気は静かに話を締めくくる。
「それからは……雪夜と鈴木は口を聞かなくなった……ということなんだ」
六条は重い表情で呟いた。
「雪夜の過去に、そんなことがあったのか……」
「だから、雪夜は鈴木の姿を見たら……あの時の感情を思い出すかもしれないから、鈴木の試合を見ないようにしたんだ」
東鶴間高校野球部の面々は、言葉を失っていた。
雪夜はいつも冷静だった。
自分の弱点を抱えながらも、誰かを支えようとしていた。
キャプテンになってからも、チームのために動いていた。
だが、その雪夜にも、見たくない過去があった。
触れられたくない傷があった。
部室のテレビでは、春日野学園高校対中月大学付属高校の試合が始まろうとしていた。
だが、部員たちはしばらく画面を見ることができなかった。
そんな時だった。
夏目真衣が立ち上がった。
「私……雪夜君を見てくる」
その声は、静かだった。
けれど、迷いはなかった。
真衣はそのまま部室を出ていく。
六条は、その背中を見送ってから呟いた。
「……僕たちは、どうしようか」
元気は雪夜の言葉を思い出す。
「雪夜から……試合を見ていてほしい……って言ってたでやんす」
龍二郎はテレビ画面へ視線を戻した。
「なら……雪夜は夏目に任せて、俺たちはやるべきことをやるだけか」
その言葉に、部員たちは少しずつ頷いた。
雪夜が見られない試合。
それでも、雪夜は自分たちに見ていてほしいと言った。
春日野学園高校。
中月大学付属高校。
鈴木草助。
桜川守。
全国の頂点に近い場所で戦う二人の投手。
東鶴間高校野球部の面々は、雪夜の頼みを受け止め、部室のテレビへ向き直った。
そして、全国大会準決勝。
春日野学園高校対中月大学付属高校の試合を見届けることにした。




