第240話 九条姉妹の悩み
役職決めが終わり、東鶴間高校野球部の面々は、それぞれ帰路についた。
その日の夜。
自宅に戻った九条咲は、ひとりリビングで考え込んでいた。
新キャプテンは高橋雪夜。
副キャプテンは六条遊人。
そして、もう一人の副キャプテンに白石広志。
新しい体制は決まった。
だが、問題はここからだった。
進藤竜也、田中三郎、中山太郎は引退した。
これからの東鶴間高校野球部は、二年生と一年生だけで進んでいかなければならない。
城南ヶ丘学園高校。
桜桜花高校。
越えなければならない相手は、あまりにも強い。
咲はしばらく考えたあと、携帯電話を手に取った。
そして、姉である九条神楽へ電話をかける。
数秒後。
電話の向こうから、柔らかい声が聞こえた。
『あら、咲ちゃん……久しぶりね』
「姉さん……久しぶり」
咲は少しだけ表情を緩めた。
「まずは、県大会準優勝おめでとう」
『ありがとう、咲ちゃん』
神楽は穏やかに答える。
『でも、みんなは悔しがっていたわよ』
「そうだろうね……あと一つ勝てば、全国大会出場だったから」
『そうねぇ』
電話越しに、神楽が小さく息を吐くのが分かった。
『咲ちゃんの方こそ、今年はベスト8まで来たじゃない。おめでとう』
「姉さん……ありがとう」
咲はそう言ったあと、少しだけ目を伏せた。
「でも、教え子たちは悔しがっていたよ」
『そうねぇ……ベスト8とはいえ、七回コールドで負けたものねぇ。悔しいはずよ』
「そうなんだ」
咲はソファーに座り直す。
「だから、これからどうすればいいのか、悩んでいて……」
『これからねぇ……お互い大変ね』
神楽の声も、少しだけ真剣になる。
『うちは三年生のみんなが引退して、二年生は圭一君しかいないから、キャプテンは圭一君に引き継がれたけど……』
市原圭一。
去年、東鶴間高校を苦しめた桜桜花高校の小柄な選手。
驚異の粘り打ちで、何度もファウルを重ね、相手投手を追い込むカットマン。
その市原圭一が、今では斉藤秀一、立塚尚文たちの跡を継ぐ者になっていた。
「そうなんだ……」
咲は少し驚いたように呟く。
「うちは多数決で、雪夜がキャプテンに決まったんだ」
『あら、いいじゃない』
神楽の声が明るくなった。
『雪夜君は、キャプテンに向いていると思うわよ』
「私もそう思う」
咲は頷く。
「けど、本人は向いてないと言っていたんだ。やはり、肩が弱いことを気にしていたよ」
『そんなこと、気にしなくてもいいのにねぇ』
神楽は少し残念そうに言った。
『秀一君も言っていたわよ。君はいい捕手になる、って』
「私もそう思う」
咲は静かに言う。
「けど、雪夜は気にしていたよ。それでも、キャプテンにはなってくれたけど」
『そうねぇ……咲ちゃん』
「うん?」
『雪夜君を支えてあげてね』
その言葉に、咲は少し黙った。
神楽は続ける。
『雪夜君が正捕手になったら、間違いなく肩が弱いところを突いてくると思うわ』
「それは……分かっているよ」
咲の声も重くなる。
肩が弱い捕手。
相手からすれば、そこは明確な弱点になる。
盗塁。
エンドラン。
バント。
足を絡めた揺さぶり。
強豪校なら、容赦なく突いてくる。
『そこで、雪夜君が悩んでしまったら、支えるのは……監督である咲ちゃんの役目よ』
「私の……役目……」
『そう』
神楽の声は優しかった。
『悩みがある子を導くのは、監督である私たちの役目だから』
咲は、その言葉を静かに受け止めた。
雪夜は強い。
だが、傷ついていないわけではない。
肩が弱いことで、自分を否定してきた過去がある。
それでも、キャプテンになった。
正捕手になる覚悟も決めようとしている。
ならば、自分が支えなければならない。
監督として。
教え子を導く者として。
「姉さん……ありがとう」
咲は小さく息を吐いた。
「相談して良かったよ」
『そう言ってもらえるなら、よかったわぁ』
神楽の声が少し明るくなる。
『さて、本題はここまでにして、咲ちゃん』
「なんだい、姉さん」
『雪夜君との仲は、どこまで進展したのかしら』
「ちょ……姉さん、いきなり何を言っているの」
咲は思わず声を上げた。
神楽は楽しそうに笑う。
『だってぇ、妹の恋を応援するのは、姉の役目だもん』
「私と雪夜はまだ、そういう関係ではないから」
『まだってことは……気にはなっているってことかしら』
「それは……そうだけど」
咲は小さく答えてしまい、すぐにしまったと思った。
電話の向こうで、神楽が嬉しそうに声を弾ませる。
『そう。それは一歩前進したわね』
「だけど、私と雪夜は、監督と選手の関係だから……」
咲は自分に言い聞かせるように言った。
「今は、それ以上でもそれ以下でもないよ」
『今はそれでいいわよ』
神楽はあっさりと言う。
『私も秀一君との仲は、少し進展しているもの』
「そういえば……秀一はどうしているんだ」
『今年は、身体作りだけでいいらしいわよ。だから試合には出場していないけど、充実しているって言っていたわ』
「そうか……それならいいけど」
斉藤秀一。
去年、桜桜花高校を全国大会優勝へ導いた選手。
今は次の舞台へ進み、身体作りに励んでいる。
その姿を想像し、咲は少しだけ安心した。
『それに……たまに会えるから、寂しくはないわ』
「それなら、良かったよ」
『ありがとう、咲ちゃん』
神楽の声は穏やかだった。
県大会を終えた監督同士。
姉と妹。
それぞれ悩みを抱えながらも、互いの言葉で少しだけ心を軽くしていた。
咲は電話を耳に当てたまま、窓の外を見る。
新しいチーム。
新しいキャプテン。
そして、雪夜のこれから。
不安は消えない。
だが、進むしかない。
九条姉妹の話は、そのあともしばらく続いた。




