第225話 雪夜と蓮次郎
高橋雪夜と滝橋蓮次郎。
二人は、少し離れた場所で向かい合っていた。
東鶴間高校の選手たちはバスの中で待っている。
城南ヶ丘学園高校の選手たちも、同じようにバスで待機していた。
試合は終わった。
勝者と敗者は、もう決まっている。
それでも、二人にはまだ話しておかなければならないことがあった。
先に口を開いたのは、蓮次郎だった。
「……久しぶりだね、雪夜」
雪夜は少しだけ目を伏せ、それから答えた。
「……そうだね。小学校を卒業してから会っていなかったから、久しぶりだね」
懐かしい名前。
懐かしい声。
けれど、今の二人はもう小学生ではない。
一人は東鶴間高校の選手として。
一人は城南ヶ丘学園高校の選手として。
同じ球場に立っていた。
蓮次郎は、少しだけ言葉を探すように視線を揺らした。
「……僕、本当は……雪夜に投げてみたかった」
その言葉に、雪夜は静かに頷いた。
「僕も、蓮次郎と対戦してみたかった」
対戦することはなかった。
礼二を降ろせなかった。
滝橋蓮次郎をマウンドへ引きずり出すことはできなかった。
その悔しさは、まだ雪夜の胸に残っていた。
だが、蓮次郎の表情は、ただ悔しがっているだけではなかった。
「……雪夜」
「うん」
「君がいなかったら……僕は野球をやめていたよ」
雪夜は驚いたように蓮次郎を見る。
「……どうして」
蓮次郎は少しだけ笑った。
どこか照れくさそうな、けれど、とても大事なことを伝えようとしている顔だった。
「雪夜が、僕の球をほめてくれたから、続けられたんだよ」
「そんなこと……ないよ」
雪夜はすぐに首を横に振った。
「蓮次郎はいい球を投げていた。それは本当だよ」
蓮次郎は、その言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「その言葉が嬉しかったんだ」
雪夜は黙っていた。
「中学でスタメンになれなくても……試合に出られなくても……僕は頑張れた」
蓮次郎はゆっくりと言葉を続ける。
「雪夜がくれた言葉があったから、僕は野球を続けてこられたんだ」
雪夜は、何も言えなかった。
自分の言葉。
自分では何気なく言った言葉。
それが、蓮次郎の中でずっと残っていた。
そして、蓮次郎を野球に繋ぎ止めていた。
「だから」
蓮次郎は雪夜を真っ直ぐに見た。
「今の僕があるのは……雪夜のおかげだよ」
その瞬間、雪夜の目から涙がこぼれた。
蓮次郎は少し驚いたように目を見開く。
雪夜は慌てて涙を拭おうとしたが、止まらなかった。
(そうか……)
胸の奥に、熱いものが広がっていく。
(僕のしてきたことは、無駄ではなかったんだね……)
中学で野球をやめた。
逃げたと思っていた。
自分は何も残せなかったと思っていた。
誰かの役に立つことなんて、できなかったと思っていた。
でも、違った。
(中学で野球をやめた僕にも……人の役に立っていたなんて……)
雪夜は涙を拭いながら、蓮次郎を見た。
蓮次郎は困ったように言う。
「雪夜……僕、変なことを言ったかな」
雪夜は首を横に振った。
「いや、いいんだ」
そして、少しだけ笑った。
「蓮次郎が野球を続けていてくれて、よかったよ」
蓮次郎も、静かに笑った。
「……次の試合」
「うん」
「僕が先発することになったよ」
雪夜は少し驚き、それから頷いた。
「そうか……準決勝でも、頑張りなよ」
「うん」
蓮次郎は力強く頷いた。
「雪夜の分も、頑張るから」
その言葉に、雪夜は少しだけ目を細めた。
悔しさは消えない。
負けた現実も変わらない。
それでも、蓮次郎が次の試合で投げる。
自分たちを倒した城南ヶ丘の選手として。
かつて自分が言葉をかけた投手として。
その事実が、雪夜の胸に不思議な温かさを残した。
二人は、短く言葉を交わし、それぞれの居場所へ戻っていく。
雪夜は東鶴間高校のバスへ。
蓮次郎は城南ヶ丘学園高校のバスへ。
勝った者と、負けた者。
進む者と、ここで止まる者。
それでも、二人の間にあった時間は、決して無駄ではなかった。
こうして、東鶴間高校対城南ヶ丘学園高校の試合は、静かに終わったのであった。




