第219話 城南ヶ丘戦、七回裏、攻撃前
七回裏が始まる前。
東鶴間高校のベンチで、監督の九条咲は静かに悩んでいた。
スコアは5対10。
五点差。
この回、城南ヶ丘学園高校に二点を取られれば、七回コールドで試合は終わる。
それは同時に、三年生である進藤竜也、田中三郎、中山太郎の高校野球人生が終わることを意味していた。
咲は、ベンチにいる進藤と中山を呼んだ。
「進藤……中山……」
二人は咲の前に立つ。
進藤の表情は静かだった。
中山の表情には、疲労と悔しさが滲んでいた。
咲は二人を見つめる。
「後悔のないように、全力を尽くしなさい」
進藤は静かに頷いた。
「はい」
中山も、少し遅れて頷く。
「……はい」
咲はその中山を見た。
ここまで中山は苦しんできた。
打たれた。
走られた。
揺さぶられた。
配球も読まれ、何度も迷わされた。
それでも、咲は中山を代えるつもりはなかった。
「中山」
「……はい」
咲は、はっきりと言った。
「なにがあっても、うちの正捕手は……中山だからな」
その言葉に、中山の目が揺れた。
高橋雪夜という捕手がいる。
配球に優れ、打撃にも優れ、投手からの信頼も厚い。
その雪夜と何度も比べられ、自分でも比べてしまった。
正捕手として、胸を張れなくなった時もあった。
だが――。
九条咲は、自分を正捕手だと言ってくれた。
中山は唇を噛み、そして答えた。
「はい……最後まで、頑張ります」
咲は小さく頷いた。
「頼んだぞ」
進藤と中山は、守備位置へ向かっていく。
東鶴間ナインも、それぞれの場所へ散っていった。
その背中を見送りながら、咲はベンチに座る田中三郎へ視線を向ける。
「田中」
田中は顔を上げた。
疲労が色濃く残っている。
それでも、その目にはまだ悔しさが残っていた。
「よく頑張ってくれたね」
咲の言葉に、田中は少しだけ目を伏せた。
そして、静かに頷いた。
言葉はなかった。
だが、その頷きだけで十分だった。
咲はグラウンドを見る。
マスクを被る中山。
サードにつく進藤。
ベンチに残る田中。
三年生たちの夏が、終わりに近づいているかもしれない。
それでも、咲にはこの選択しかなかった。
(私には……この選択しかない)
雪夜を捕手に戻すこともできた。
中山を代えることもできた。
コールドをさけるだけなら、その方が良かったのかもしれない。
だが――。
(中山を代えるなんて、出来ない)
中山太郎は、東鶴間高校の正捕手なのだ。
ここまで田中三郎と共に戦ってきた捕手なのだ。
最後の瞬間まで、グラウンドに立たせたい。
咲はそう思っていた。
そして――。
七回裏。
城南ヶ丘学園高校の攻撃が始まろうとしていた。
東鶴間高校にとって、この回を越えられるかどうかが、夏を繋ぐ最後の境目になるかもしれなかった。




