第192話 雪夜と礼里の過去
練習が終わり、東鶴間高校野球部の面々はそれぞれ帰路についた。
高橋雪夜も自宅へ帰り、風呂に入り、夕飯を済ませた。
そして自室に戻ると、何をするでもなく、ベッドの上に腰を下ろした。
頭の中に浮かぶのは、城南ヶ丘学園高校のことだった。
桐原礼里。
桐原礼二。
六本遊希。
滝橋蓮次郎。
戦わなければならない相手の顔が、次々と浮かんでは消えていく。
その中でも、どうしても一番強く浮かぶのは、礼里の顔だった。
雪夜は目を閉じる。
すると、昔の記憶が蘇ってきた。
中学二年生の冬。
小山唯に失恋した、あの頃のことだった。
新井元気が唯に告白し、二人は恋人になった。
雪夜にとって、それは静かな失恋だった。
告白する前に終わった恋。
何も言えないまま、失った想い。
その日の練習後、雪夜は部室で一人、ぼんやりとしていた。
すると、部室の扉が開く。
「雪夜」
そこにいたのは、桐原礼里だった。
「まだいたのか」
「うん」
雪夜は顔を上げる。
「礼里もかい?」
「ああ」
礼里は部室へ入り、少し離れた場所に座った。
しばらく沈黙が流れる。
やがて礼里が、ぽつりと呟いた。
「なんか、元気と唯を見ていると……なんかね」
雪夜は小さく頷いた。
「そうだね。あの二人……恋人になったもんね」
「……そうだな」
礼里は視線を落とす。
そして、少し迷った後で言った。
「なあ、雪夜」
「なんだい、礼里」
「雪夜は……唯のことが好きなんだろう」
雪夜は一瞬だけ黙った。
だが、隠す意味もなかった。
「……うん」
静かに答える。
「そうだよ」
礼里は、苦しそうに笑った。
「……私は」
言葉が少し震える。
「元気が好きだったんだ」
雪夜は驚かなかった。
なんとなく、気づいていた。
礼里の視線。
元気への態度。
それは、幼馴染だからこそ分かるものだった。
「……うん」
雪夜は静かに言った。
「なんとなく、そうかなぁ……と思っていたよ」
「そっか」
礼里は力なく笑った。
「なのに、告白する前に失恋したよ」
「そうだね」
雪夜も笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「僕もだよ」
部室に、静かな沈黙が落ちた。
外からは、冬の冷たい風の音が聞こえてくる。
礼里は天井を見上げる。
「……雪夜」
「うん」
「私たち……報われなかったね」
雪夜は、少しだけ目を伏せた。
「うん……そうだね」
その言葉は、あまりにも寂しかった。
誰が悪いわけでもない。
元気も、唯も、何も悪くない。
ただ、二人の想いが届かなかっただけだった。
だからこそ、余計につらかった。
礼里は唇を噛んだ。
「……私には」
小さな声だった。
「最初から……好きな人はいなかったと思うようにするよ」
「……礼里?」
「好きな人は……いなかったんだ」
礼里の声が震える。
「雪夜……」
次の瞬間、礼里の目から涙がこぼれた。
強気で、負けず嫌いで、いつも雪夜を挑発してくる礼里。
そんな礼里が、子どものように泣いていた。
雪夜は動揺した。
どうすればいいのか分からなかった。
けれど、放っておくことはできなかった。
雪夜はそっと礼里へ近づき、静かに抱きしめた。
礼里は拒まなかった。
ただ、雪夜の胸元で涙を流していた。
「ごめん……雪夜」
礼里は小さく言った。
「お前にしか言えなかった……」
雪夜は礼里の背中を優しく叩く。
「うん」
そして、静かに言った。
「いいよ。これぐらい」
二人は何も言わなかった。
ただ、同じ痛みを抱えたまま、しばらくそこにいた。
その日。
高橋雪夜と桐原礼里は、同じ失恋をした。
雪夜は目を開けた。
自室の天井が見える。
あれから、どれだけの時間が経ったのだろう。
礼里とは、あの頃のようには戻れなかった。
いつからか言い争いが増え、勝負にこだわり、最後には顔を合わせるのも苦しくなった。
それでも。
あの冬の日、礼里が泣いていたことを、雪夜は忘れられなかった。
「……礼里」
雪夜は小さく呟く。
「礼二さん……遊希……蓮次郎……」
かつての幼馴染。
かつての仲間。
かつてバッテリーを組んだ相手。
その全員と、今度は敵として戦わなければならない。
「戦うしか……ないのか……」
答えは出なかった。
考えても仕方がない。
準々決勝は、もうすぐそこまで来ている。
雪夜はゆっくりと布団に入った。
目を閉じても、すぐには眠れそうになかった。
それでも、明日は来る。
城南ヶ丘学園高校との試合は、避けられない。
雪夜は胸の中に残る痛みを抱えたまま、静かに眠ろうとした。




