第189話 雪夜の過去
桐原兄妹が東鶴間高校へ来た翌日。
東鶴間高校野球部の面々は、部室に集まっていた。
空気は、どこか静かだった。
昨日の出来事が、まだ全員の胸に残っている。
そんな中、監督の九条咲が口を開いた。
「みんな、昨日は大変だったな」
部員たちは黙って咲を見る。
「そのことで、雪夜から話がある」
その言葉に、全員の視線が高橋雪夜へ向いた。
雪夜はゆっくりと前へ出る。
そして、深く頭を下げた。
「……みなさん」
少し震えた声だった。
「昨日は、すいませんでした」
すぐに高柳龍二郎が言った。
「雪夜。それはもういいんだ」
だが、雪夜は顔を上げたまま、静かに続ける。
「……昨日、家で考えて」
全員が黙って耳を傾ける。
「みんなが嫌じゃなかったら、聞いてほしい話があるんです」
誰も反対しなかった。
咲も、進藤も、龍二郎も、元気も、唯も。
全員がただ、雪夜の言葉を待っていた。
雪夜は小さく息を吸う。
そして、話し始めた。
「昨日の子……桐原礼里って名前で……僕と唯と元気の幼馴染なんです」
部室の空気が、少しだけ変わる。
雪夜は続けた。
「それで……礼里とは中学三年生の最後の大会前まで、何度も勝負をして……一回も勝てなかったんです」
その言葉に、部員たちは驚きを隠せなかった。
高橋雪夜。
あの“本物の天才”佐藤秋一郎からヒットを打った男。
配球でも打撃でも、誰もが一目置く存在。
そんな雪夜が、一度も勝てなかった相手。
桐原礼里。
彼女が、ただのマネージャーではないことを、全員が理解した。
雪夜は、少しだけ拳を握った。
「そして……勝てないまま、礼里は選手からマネージャーになって……」
言葉が詰まる。
「それで、最後は言い争いになって……殴り合い寸前にまでいきそうになったんです」
部室に、重い沈黙が落ちた。
あの雪夜が。
普段は優しくて、温厚で、誰よりも仲間を気遣う雪夜が。
殴り合い寸前にまでなった。
それほどまでに深い因縁があるのだと、誰もが思った。
「それから……礼里との仲がより悪くなって……昨日の出来事に繋がったんです」
雪夜は再び頭を下げた。
「だから……すいませんでした」
しばらく誰も話さなかった。
やがて、キャプテンの進藤竜也が静かに口を開いた。
「……だいたいは分かった」
雪夜が顔を上げる。
「雪夜が桐原礼里と因縁があることも分かった」
進藤は真剣な表情で続ける。
「それでも、言い争いは良くなかった」
「……はい」
雪夜は素直に頷く。
「すいません……」
だが、進藤は責めるだけではなかった。
「だが」
雪夜を見る目が、少しだけ柔らかくなる。
「そんな理由があっても、よくこらえてくれた」
「……キャプテン」
「雪夜」
進藤は、はっきりと言った。
「一人で抱え込むな」
その言葉に、雪夜の胸が詰まる。
「僕たちは雪夜の味方だから……それだけは忘れないでね」
雪夜は周囲を見た。
龍二郎が頷いている。
元気も、唯も、真衣も、冬美も。
誰も雪夜を責めていなかった。
ただ、受け止めてくれていた。
「……キャプテン」
雪夜の声が震える。
「みなさん……ありがとうございます」
その言葉と共に、雪夜の心は少しだけ軽くなった。
昨日から胸に残っていた重苦しさが、ほんの少し晴れていく。
礼里との因縁が消えたわけではない。
過去がなくなったわけでもない。
それでも――。
今の雪夜には、仲間がいる。
それだけで、前を向ける気がした。
そして。
空気が少し落ち着いたところで、九条咲が資料を手に取った。
「それじゃあ、城南ヶ丘学園高校との試合について話を始めよう」
準々決勝。
東鶴間高校と城南ヶ丘学園高校。
高橋雪夜にとって、避けては通れない試合が近づいていた。




